スハルト
1965年、インドネシア軍を指揮して左派クーデタを鎮圧し、スカルノに代わって実権を握り大統領となる。1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)結成を主導した。60年代後半~90年代に開発独裁政策を展開、経済成長を実現したが、長期政権による政治の腐敗を招き、1997年にアジア通貨危機に陥ったことを機に批判が高まり、1998年に退陣した。
切手になったスハルト
スカルノのもとで台頭
インドネシアの独立を主導したスカルノ大統領が、インドネシア共産党の協力をバックにナサコム体制を作り上げると、軍内部には共産党勢力の台頭を喜ばない勢力が台頭した。こうしてインドシナ国軍の中に、スカルノ支持=左派と反スカルノ=右派の対立が生じ、その右派のなかでスハルトが次第に力をつけて国防相にまでなった。スハルトは軍中枢で人脈を作ることにつとめ、特に軍の財政面を管理しながら経済界との関係を深めたという。またスカルノが「マレーシア対決」を叫び断交したことには内心は反対で、マレーシア粉砕作戦司令部副司令官でありながらマレーシアとは秘密の連絡ルートをもち、マラッカ海峡を舞台にゴム、コプラ、タバコなどを海軍の艦艇を使ってシンガポールやペナンに密輸して資金を調達していた。<白石隆『スカルノとスハルト』現代アジアの肖像11 1997 岩波書店 p.127-128>
九・三〇事件
1965年9月30日の深夜、突如、軍左派の軍人が反スカルノ派を排除するとして右派の軍人6名を殺害するという九・三〇事件が起きると、スハルトはすばやく軍を掌握してこのクーデタ未遂事件を鎮圧した。さらにクーデタ未遂の背後にはインドネシア共産党が関与しているとしてその排除をスカルノに強く迫った。それまでも共産党の支持を基盤としていたスカルノはそれを拒否したが、軍の大勢はスハルトについたため次第に孤立していった。Epsode 将軍は知っていたか
事件当日の9月30日夜、スハルトは子どもの病気の見舞いで病院にいて、事件を知らなかったと、後の「自伝」で書いている。そしてさらりと10時頃にラティフ大佐を病院で見かけたが、話もせず帰宅し、翌朝事件を知ったと書いている。ここにはひとつの「うそ」がある。スハルトはラティフ大佐を見かけたのではなく、ラティフはスハルトに会いにきたのだ。このラティフこそがもう一人の将校ウントゥンとともに翌日の未明、将軍6人の殺害を決行した首謀者だった。ウントゥン(大統領親衛隊大隊長)もラティフ(ジャカルタ地域軍管区司令部第一旅団長)もかつてのスハルトの部下であり、旧知の間柄である。このときラティフは事前にスハルトの了解を取りに、病院に来ていたのだ。10月1日早朝、事件を知ったスハルトは一人でジープを運転して陸軍戦略予備軍司令部に行った。そこには米軍の軍事援助で作られた全国通信ネットワークがあったが、反乱軍は占拠していなかった。9時になってスハルトは参謀会議を招集、9月30日運動を「反乱」と規定し、陸軍の指令権を掌握、占拠された国営ラジオ局の奪取を命じた。翌日早朝、反乱軍が占拠したハリム空軍基地は陸軍空挺部隊によって奪回され、ウントゥンは逃亡したが捕らえられて殺され、ラティフは逮捕されて反乱は鎮圧された。スハルトはボゴール宮殿でスカルノに会い、治安秩序回復に必要なすべての権限を手に入れた。スハルトは9月30日の夜、何が起こるか知っていた。おそらくスカルノも、共産党書記長アイディットも知っていたであろう。そして陸軍進歩派の一部将校の反乱のクーデタとして翌々日のうちに鎮圧され、スハルトが陸軍の指令権と大統領の治安維持の権限を奪うというもう一つのクーデタは成功した。<白石隆『同上書』 p.128-133>
権力掌握と共産党員の虐殺
徐々にスカルノ大統領から権限を奪っていったスハルトは1966年3月11日にクーデタでスカルノ大統領に権限移譲を迫り、それを認めさせた。このとき、「3月11日命令書」(スプル=スマル)という秩序回復のための一切の権限を与えられ、共産党を非合法化し、実質的な権力を獲得した。この時点ではスカルノはまだ名目的な大統領であったが、その実質的権限はすべて奪われてしまった。権力を掌握したスハルトは、狙いであったインドネシア共産党を撲滅することに踏みきり、そのためインドネシア全土で共産党員、その協力者が次々と逮捕され、裁判なしに処刑されるという大虐殺が始まった。インドネシア大統領に
翌1967年3月12日にはスカルノの大統領職は解かれて、スハルトが大統領代行に就任、ついで1968年3月27日、スハルトは第5回暫定国民協議会で第2代大統領に任命された。国民協議会とはインドネシア各会の職能代表が参加するもので、議員は国民が選挙で選んだ者ではないので、スハルトは直接国民から選出された大統領ではなかった。Epsode 「新秩序」を支えた恐怖の記憶
スハルトの作り上げた「新秩序」はパンチャシラの国家原理と1945年憲法の定める大統領権限という「国民的合意」によって支えられていたが、この国民的合意は自然発生的に成立したものではなく、スハルトが9.30事件以後の治安秩序回復作戦司令部の指揮下で行わせた、陸軍と反共勢力による共産党への徹底した弾圧から生まれたものだった。1965年10~11月に、45~50万人の共産党員、支持者が殺され、50~60万人が逮捕されたことは、一般国民の間にも、国家=軍に対する抜きがたい恐怖を植え付けた。(引用)1965年末から66年はじめにかけて、特に多くの人々の殺された中・東部ジャワ、バリ、アチェなどの地域では、ほとんど毎日のように首のない死体が河に捨てられて下流へと流れていき、人々は一時、さかなを食べるのを止めてしまった。幹線道路沿いの村では逮捕された共産党員を運ぶトラックの音が夜ごとに聞こえ、村々では、あの木の下、この墓地の前、あの橋の袂といった殺人現場に、死の記憶がそれにまつわる恐怖とともに刻印された。つまり、インドネシアの人々は、国家=治安秩序回復作戦司令部の圧倒的な暴力=権力を、このときほとんど毎日のように目のあたりにし、そうした暴力に対する恐怖は、あの墓地、この橋の袂といった自然の情景に刻み込まれて記憶されたのである。こうして新秩序は死と暴力のうちに誕生した。新秩序の誕生に際し、パンチャシラと45年憲法について「自然発生的」に国民的合意が成立したとすれば、それは死への恐怖からであった。そしてこの恐怖が長い間、新秩序の安定を究極のところで支えることになった。つまり、少し比喩的に言えば、笑みを浮かべたスハルトの顔を見て、そこからふっと微笑みが消える瞬間を想像する、そしてその恐怖に震え上がる、そういう想像力の上に新秩序の安定性は成立していた。<白石隆『同上書』 p.142-143>
開発独裁
スハルト大統領は「新秩序」と「開発の時代」を掲げ、外国資本の積極的な導入による石油資源の開発をはじめとする開発優先の政策を展開し、強大な陸軍の支持を背景に独裁体制を築いた。それまでのインドネシア建国の理念は「多様性のなかの統一」と、より国家統合を強めたパンチャシラ(建国五原則)があったが、スハルトの時代は後者が強調されるようになった。ゴルカルと総選挙 スハルトの新秩序を支える国家メカニズムはゴルカルと総選挙であった。ゴルカルは「職能グループ」のことであるが、新秩序体制の翼賛機関であり、公務員は5年に一度の「民主主義の祭典」である総選挙で、ゴルカルへの投票を義務づけられ、国軍、内務省はゴルカルへの票の動員に全力を挙げ、ゴルカルは総選挙のたびに70%前後の票を得て議会をコントロールした。総選挙の目的は、国民の意志を問うことではなく「成功」させることにあった。
この体制では政党は国家機構へのアクセスを失って凋落した。最も深刻な打撃を受けたのはスカルノ主義を信奉する国民党であった。共産党はすでに消滅、イスラーム寄宿学校という国家とは独立した社会的支持基盤を持つ保守的イスラーム政党であるナフダトゥール・ウラマー(NU)だけがわずかに勢力を維持していた。<白石隆『同上書』 p.149-150>
ASEANの結成
スハルトは大統領になると、スカルノの反米、親中国の姿勢とマレーシア問題で国際連合から脱退した強硬路線を改め、まずマレーシアとの関係を修復して国際連合に復帰し、インドネシア共産党弾圧に抗議する中国に対しては国交断絶で答えた。そして1965年から本格化したベトナム戦争に対して、アメリカの意向を汲み、共産主義勢力の伸張を押さえるための軍事同盟として、1967年8月8日にタイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールとの東南アジア諸国連合(ASEAN)の結成に動いた。これによって冷戦期のアジアで、インドネシアが西側陣営に加わることを鮮明にした。東ティモール独立を抑圧 ポルトガル領であった東ティモールで独立運動が起こり、1975年11月に独立を宣言すると、スハルト政権は1975年12月に国軍を派遣して強引にインドネシアに併合した。国連総会はインドネシアに対する非難決議を出したが、アメリカ・オーストラリア・日本はスハルトを支持した。独立派はゲリラ戦で抵抗を続け「東ティモール紛争」は長期化し、その解決はスハルト退陣後となった。
中国との国交回復 中国と断交したスハルトであったが、文化大革命後の中国が改革解放路線に転じると、積極的にASEANと中国の経済協力を進めることに転じ、1989年、昭和天皇の葬儀に参列するために訪日したスハルトは東京で中国代表の銭其琛外相と電撃的に会談し、22年ぶりに国交を回復を約束した。それは自らASEANのビジネスマン役を買って出た行動であった。90年8月8日、中国の李鵬首相がジャカルタを訪問、両国は正式に国交を回復した。<水本達也『インドネシアー多民族国家という宿命』2006 中公新書 p.175-176>
家族主義の弊害
この間、インドネシア経済は急速に発展したが、その反面、貧富の差は拡大し、人権は抑圧され、政治・社会の矛盾が深化した。形式的には憲法に基づく大統領選挙で選出されていたが、軍隊や官僚、外国企業と結びついた政治腐敗が次第に明らかになり、国民の疑惑の目が向けられるようになった。スハルトの統治スタイルの特色は家族主義にあったが、特にスハルトの夫人と子供たち一族の「ファミリービジネス」による不正がが次第に問題にされるようになった。Epsode 大統領の「ファミリービジネス」
スハルトは大統領としてインドネシア国民の父親(パッ・ハルトと呼ばれた)として振る舞ったが同時に自分のファミリーに対してもよき父親でなければならなかった。だから、子供がビジネスをやりたいと言えば会社の一つももたせてやる。子供たちはそれぞれテレビ局経営、移動電話通信、石油化学、証券、高速道路管理、自動車生産、その他「濡れた」おいしい話のあるところにはどこでも進出した。三男のトミーはランボルギーニのスポーツカーを気に入り、ランボルギーニ自動車会社を買い取っても満足できず、韓国の紀亜自動車と合弁で「国産車」を韓国で作り始めた。そうなると長女のトゥトゥット、次男のバンバンも自分の自動車会社が欲しいという。良き父親スハルトは、彼らの願いを次々とかなえてやる。経済閣僚は皆、このプロジェクトは破綻することを知っているが、親父のメンツをつぶすわけに行かないので黙り込む。ところがスハルトは、三男トミーの国産車プロジェクトに関税特別措置を付与すると言い出した。これは日本が黙っていず、WTOに提訴するだろう。国際問題になれば、国民的利益と「一族」の利益の対立が浮彫にされる。ファミリービジネスの拡大は国家利益と一致しないばかりでなく、もともとスハルト経済独裁を支えていた華人財閥と利害がぶつかっていくだろう。スハルトが健在のうちは誰もが黙っているが、皆、スハルトが死んだらどうなるだろうと気になりだした。ファミリーの中では娘婿のプラボウォ准将が陸軍特殊部隊司令官として軍を握り、スハルト「王朝」を継ぐのではないかという観測が流れ始める。<白石隆『同上書』 p.158-166,169-189>
アジア通貨危機
1997年7月にタイで始まったアジア通貨危機がインドネシアに波及した。東南アジア諸国に過剰な投資を続けてきた海外投資家が、実態から離れた経済がやがて破綻するとみて一斉に資金を引き揚げたため、各国の財政赤字が急増し、通貨価値が暴落した。タイ、インドネシアは国際通貨基金(IMF)や日本に支援を要請し、危機を脱しようとしたが、その代償としてIMFから厳しい経済構造改革を求められ、その管理下に置かれるという主権国家としての権威が崩壊した。(引用)欧米への過度の経済的な依存は、国民に露出されないことも重要だった。アジア通貨危機がインドネシアを直撃した97年10月、暴落する通貨ルピアに対してインドネシアはIMFに緊急支援を要請した。IMFは翌98年1月、融資の条件として経済構造改革に関する協定をインドネシアと締結するが、その際、スハルトが協定書に署名している横でIMFの専務理事が腕組みして見おろしている写真が報道された。国民は「屈辱的だ」と反発し、威信を失ったスハルトはその四ヶ月後に辞任に追いこまれた。インドネシア中央銀行によれば、2000年末の時点で政府と国営企業の対外債務残高は約800億ドルに達していた。<水本達也『同上書』 p.174>
退陣と裁判
結局スハルトは、1998年5月に退陣に追い込まれた。大統領には副大統領だったハビビが昇格した。スハルト前大統領は退任後に、大統領在職中の不正を告発され、裁判にかけられた。起訴状によれば、福祉目的の財団を使って資金を不正蓄財し、その金で一族の企業に便宜を図るなどして国家に600億円余相当の損害を与えたとなっている。欧米メディアは不正蓄財の総額を、推定150億ドルと報じた。初公判は2000年8月31日、厳戒態勢が敷かれる農林省の講堂に設置された特別法廷で開かれたが、スハルトは「病状悪化」を理由に出廷しなかった。その後は、最高検察庁の医師団がスハルトを「言語障害」と診断したため、審理はうやむやになった。<水本達也『同上書』 p.58>
裁判はその後もスハルト欠席のまま進められ、2008年3月27日、南ジャカルタ司法裁判所は「スハルト元大統領および慈善団体の行為自体は違法」と認めながらも公金流用に元大統領が「直接関与した証拠はみられない」として無罪を言い渡した。裁判を見届けるように、スハルトは同年86歳で死去した。
Episode スカルノとスハルトを間違える
インドネシア共和国の初代大統領スカルノと第二代大統領スハルトは、名前がちょっと似ているので、慌て者の受験生は時々間違えるようですから、注意しましょう。この二人はインドネシアの現代史では欠かすことのできない人物で、二人とも独裁者でしたが、やってることは正反対でしたね。もっとも間違えるのは受験生だけでなく、外国人は「スカルノ」と「スハルト」の二人の名前を混同することが多いようです。2002年にインドネシアを訪問した南アフリカ共和国のマンデラ大統領は、記者団の前で、インドネシアのメガワティ大統領のことを「スハルト元大統領の娘」と呼んでしまい、周囲から「スカルノ初代大統領の娘です」と慌てて訂正されるという場面があったそうです。一方、スハルトは大統領時代、外遊先でよく市民から「スカルノさん」と声をかけられ、渋い顔をしていたといいます。いずれにしてもインドネシアで両者を混同することは痛烈な皮肉となります。<水本達也『同上書』 p.94>