ルワンダ/ルワンダ内戦
ルワンダは東アフリカで1962年に独立。民族対立から1990~94年、深刻な内戦となり、フツ族によるツチ族に対する大量虐殺が行われた。
ルワンダはアフリカ中央、赤道のやゝ南に位置する小国。1962年、ベルギーの信託統治から独立したアフリカ人主体の共和国であるが、フツ族とツチ族の民族対立から1990年~94年に激しい内戦となった。特に1994年には、フツ族民兵によるツチ族に対する大量虐殺が行われ、100万人の犠牲という、アフリカ史上最悪といわれる事態となった。現在はNGOによる国際支援活動により、安定を回復しつつあるが周辺諸国に逃れた難民の帰還は終わっていない。 → ルワンダ内戦
第一次世界大戦後、1924年からベルギーの委任統治領とされたが、ベルギーは植民地支配を行うにあたって統治当局は、それ以前から存在するルワンダ王国をつうじての間接統治という形態をとったが、その王は少数派であるツチ系を優遇し、多数派のフツ系を支配するという構図にした。現地の住民をフツとツチに分けその対立を利用したということができる。
作られた民族対立 フツとツチは、フツ系が農耕民、ツチ系が遊牧民とされるが、実際には人種的違いはなく、同じ言葉を喋り、同じ宗教を信じ、結婚もしていた。しかしベルギー当局は外観の違いから人種として区別、平らな鼻と厚い唇、四角い顎をもつ、比較的身長の低いフツ、薄めの肌に細い鼻、薄い唇に尖った顎もつ、比較的身長の高いツチに分け、人種が記されたIDカードまで発行し、小学生にまで人種差別の思想を植え付け、少数派(約14%)のツチを経済的にも教育的にも優遇して役人などに登用し、多数派(約85%)のフツを支配させた。
独立直後のルワンダは、アフリカで最も人口密度の高い国であったが、コーヒーと錫鉱石の輸出がほとんどで産業基盤が未整備であったため財政赤字が続き、アフリカで最も貧しい国の一つとされていた。しかし1960年代後半、国際通貨基金(IMF)の支援を受けながら、経済発展を遂げ、「アフリカの模範生」とまで言われるようになった。
服部氏がルワンダを離れた後、ルワンダ経済は成長を続けたが、1970年代にコーヒーの世界的暴落などの影響から成長がストップし貧富の格差が拡大した。それが背景となって、一時沈静化していたフツ系とツチ系の民族対立が再び激しくなり、90年代の内戦勃発となる。服部氏がルワンダで仕事をしていた時期はフツ系大統領のもとでツチ系の官僚が働き、両者は仲良く共存していたという。服部氏はルワンダの内戦に心を痛めながら、1999年に亡くなった。その死後の2009年に出された『ルワンダ中央銀行総裁日記増補版』では、マスコミのルワンダ報道への疑問など、現地をよく知る人物としての鋭い指摘も加えられた。
ベルギーの植民地支配
19世紀末のアフリカ分割が進む中、アフリカ東部の内陸にはドイツの進出が行われ、1889年にドイツの保護領となってその東アフリカ植民地に組み込まれた。その後、第一次世界大戦まではドイツの植民地であった。第一次世界大戦後、1924年からベルギーの委任統治領とされたが、ベルギーは植民地支配を行うにあたって統治当局は、それ以前から存在するルワンダ王国をつうじての間接統治という形態をとったが、その王は少数派であるツチ系を優遇し、多数派のフツ系を支配するという構図にした。現地の住民をフツとツチに分けその対立を利用したということができる。
作られた民族対立 フツとツチは、フツ系が農耕民、ツチ系が遊牧民とされるが、実際には人種的違いはなく、同じ言葉を喋り、同じ宗教を信じ、結婚もしていた。しかしベルギー当局は外観の違いから人種として区別、平らな鼻と厚い唇、四角い顎をもつ、比較的身長の低いフツ、薄めの肌に細い鼻、薄い唇に尖った顎もつ、比較的身長の高いツチに分け、人種が記されたIDカードまで発行し、小学生にまで人種差別の思想を植え付け、少数派(約14%)のツチを経済的にも教育的にも優遇して役人などに登用し、多数派(約85%)のフツを支配させた。
ルワンダの独立
ベルギーの委任統治は第二次世界大戦後、信託統治に切り替えられた。そのもとでルワンダ王による政治が行われていたが、次第に植民地支配に対する反発、人種間の平等を求める運動が強まった。1959年の国王が継承者のないまま急死したことから政情が悪化し、新国王とそれに近いツチ族の一部は隣国のブルンジ、ウガンダなどに逃れた。1960年には国王反対派のツチ系とフツ系が協力して選挙が実施され、多数派のフツ系政党が第1党となって、61年に共和国を宣言、1962年に正式に王政を廃止、フツ族のカイバンダ大統領が大統領となった。独立後のフツ系政権の下で、ツチ系は少数派として冷遇されたので不満を持ち、ウガンダなどに亡命していたツチ系は王政復活を狙って動き、政情は安定しなかった。独立直後のルワンダは、アフリカで最も人口密度の高い国であったが、コーヒーと錫鉱石の輸出がほとんどで産業基盤が未整備であったため財政赤字が続き、アフリカで最も貧しい国の一つとされていた。しかし1960年代後半、国際通貨基金(IMF)の支援を受けながら、経済発展を遂げ、「アフリカの模範生」とまで言われるようになった。
Episode 日本人のルワンダ中央銀行総裁
独立間もないルワンダで、1964年から71年まで、中央銀行総裁を務めたのが、日本銀行出身でIMFに派遣されていた服部正也氏だった。服部氏はルワンダの通貨政策を確立する仕事を任され、その仕事を通じてルワンダの財政、産業、経済の安定と発展に尽くした。その体験を綴った『ルワンダ中央銀行総裁日記』は1972年に中公新書として発表され、日本人の海外協力、海外支援の成功例として大きな話題となり、著書は毎日出版文化賞を受賞した。服部氏はその後も日本人初の世界銀行(国際復興開発銀行IBRD)の副総裁を務めた。服部氏がルワンダを離れた後、ルワンダ経済は成長を続けたが、1970年代にコーヒーの世界的暴落などの影響から成長がストップし貧富の格差が拡大した。それが背景となって、一時沈静化していたフツ系とツチ系の民族対立が再び激しくなり、90年代の内戦勃発となる。服部氏がルワンダで仕事をしていた時期はフツ系大統領のもとでツチ系の官僚が働き、両者は仲良く共存していたという。服部氏はルワンダの内戦に心を痛めながら、1999年に亡くなった。その死後の2009年に出された『ルワンダ中央銀行総裁日記増補版』では、マスコミのルワンダ報道への疑問など、現地をよく知る人物としての鋭い指摘も加えられた。
ルワンダ内戦
1990年~94年、ルワンダでフツ族とツチ族の民族対立から起こった内戦。94年にはフツ族によるツチ族に対する大量虐殺が起こり、多くの犠牲者と難民を出した。
ルワンダ紛争の背景
植民地化する以前の王政時代から王と支配者層はツチ系(比較的身長の高い遊牧民)が占め、フツ系の農民(比較的低身長)は従属的傾向が強かったが、両者は分業的に共存する状態が続いていた。19世紀末のドイツ、第一次世界大戦後のベルギーは植民地支配を行うに当たり、ツチ系とフツ系の違いを明確にし、ツチ系の国王を利用して多数派のフツ系を抑えるという統治を行っていた。1962年の独立でフツ系の政権が成立するとツチ系の一部はウガンダなどに逃れた。その後も両民族は共存していたが、経済情勢の悪化に伴い政治が不安定化し、1973年にクーデターでフツ系政権ができると、ツチ系はウガンダに逃れ、ルワンダ愛国戦線(RPF)を組織して反政府運動を活発化させることになった。大虐殺の始まり
1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発。1993年8月にアルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月6日にフツ系政権のハビャリマナ大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった。フツ系政府軍は大統領殺害をRPFの犯行と考え、また愛国戦線の侵攻から防衛するためと称し、ツチ系住民に対する組織的虐殺に乗り出し、一説には約100日間で国民の10人に1人、少なくとも80万~100万人が虐殺されたとされる。このため、多くのツチ系が周辺国に難民となって押し寄せた。国連のPKF活動
国連はルワンダ虐殺に対し平和維持軍(PKF)を派遣したが、前年のソマリア内戦で国連平和維持軍が治安維持に失敗したことを受けて、その活動は積極的ではなかった。国連やアメリカが人道的介入を避け、国際的な対処が遅れたことが被害を拡大したと言う見方が強い。なお、日本の自衛隊も、ルワンダ難民救援国際平和協力業務として、1994年9月21日~12月28日、先遣隊23名、難民救援隊260名、空輸派遣隊118名を近隣国に派遣した。悪いのはどちらか 世界にも大々的に報じられたルワンダ内戦であったが、多数派であるフツ族政府軍、民兵あるいは暴徒による、少数派であるツチ族に対する非人道的な大量虐殺、として報道されることが多い。しかし前述の服部氏の見方は、報道には誇張があったにしろ、大量虐殺はあったことは確かであるが、きっかけを作ったルワンダ愛国戦線(RPF)はウガンダ政府の支援を受けて武装しており、ハビャリマナ大統領搭乗機を撃墜したのもウガンダ軍の小型ミサイルの疑いが濃い、と指摘している。またRPFによる報復的なフツ族虐殺も多く、現在のツチ系政権成立後は多くのフツ族が亡命を余儀なくされている、とも言われている。<服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日誌(増補版)』2009 中公新書 p.300-322>
内乱の終結とコンゴ情勢の悪化
1994年7月までにRPFが全土を完全制圧し、ツチ系による新政権が発足して紛争は終結した。現在は特別法廷で虐殺に関与した人物に対する裁判が進行しているが、フツ族の民兵の多くは隣国のコンゴなどに逃亡している。コンゴに逃れたフツ系民兵は新たにルワンダ解放民主軍(FDLR)を組織して再武装し、ツチ系難民の組織した人民防衛国民会議(CNDP)とコンゴ領内で戦闘を続けている。コンゴ住民にも被害が及んでおり、2009年3月にはルワンダ・コンゴ両政府がFDLRの掃討作戦に乗りだし、ルワンダ難民にはルワンダへの帰還の呼びかけを強めているという。<朝日新聞 09.3.12朝刊>Episode 映画『ホテル・ルワンダ』
2006年に公開された映画『ホテル・ルワンダ』は、ルワンダ内戦のとき、首都キガリのホテル・ミルコリンで、フツ族民兵に追われてホテルに逃げ込んだ1200人ものツチ族を助けたホテルの現地支配人を主人公に、この大虐殺を描いた作品である。主演のドン=チードルが熱演する支配人ポールはフツ族だが、彼の妻はツチ族。彼の家族愛と勇気、そして政府軍の将軍を賄賂を使って危機を乗り切るなどの機転が多くのツチ族を救った実話である。また国連のPKF部隊が治安を維持できない、歯がゆさがよく描かれている。この虐殺を風化させないためにも、多くの人にみてもらいたい映画である。現在、DVD化されている。監督テリー=ジョージ。ルワンダの現在
ルワンダ国旗
なお、ルワンダの南に接するブルンジも、かつてはルワンダ=ブルンジとして一括してベルギーの委任統治領だったところであり、同様にツチ系とフツ系の民族対立の問題を抱えている。