ソマリア内戦
「アフリカの角」といわれるソマリアで、1988年に内戦が始まり、90年から本格化、分裂状態となった。93年には国連PKOも介入に失敗、冷戦終結後の最も長期的で深刻な紛争となっている。2012年、ソマリア連邦共和国が成立し、収束に向かうことが期待されている。
エチオピア=ソマリア戦争
ソマリアは1960年に旧イギリス領と旧イタリア領の二つのソマリランドが合邦し、ソマリア共和国として独立した。1969年にクーデタで実権を奪ったバーレ大統領による軍事独裁政治が行われていたが、バーレは1977年から隣国エチオピアとの間で国境紛争からエチオピア=ソマリア戦争(オガデン戦争)を引き起こし、1988年に実質的な敗北に終わっていた。戦争はソマリアの社会と経済を疲弊させ、独裁政治に対する反対の声も強まり、80年代から反政府活動が各地で始まった。内戦の開始
1988年6月、エチオピア=ソマリア戦争の終結直後から、実質的な内戦に突入した。バーレ大統領は独裁色を強め、反政府活動を厳しく弾圧、それに対して反バーレ派の主力であった統一ソマリア会議が各地を抑え、大統領は首都モガディシュを抑えるだけの存在となった。そのころ、大統領は「モガディシュ市長」と揶揄される状態だった。ついに1990年、反政府勢力は首都に侵攻し、12月までにほぼ制圧、1991年1月にバーレ大統領は追放され、暫定政権が成立した。バーレはケニアに逃亡した後、ナイジェリアに亡命した。内戦の本格化
しかし、暫定政権が発足すると、1991年6月には旧イギリス領の北ソマリアが分離独立を宣言、ソマリランド共和国を名乗った。さらに暫定政権内も暫定大統領となったモハメド将軍に対し、首都制圧を指揮したアイディード将軍がそれを認めず、アイディード派によって暫定大統領は首都から追い出される事態となった。こうしてソマリアは三つ巴の内戦に突入した。その背景には、バーレ政権時代からソマリアでは地域的、部族的な勢力で政権を固めることが続いてきたことがあげられるが、イタリアとイギリスという異なる植民地支配の過去を引きずっていると見ることもできる。国連PKOの失敗
1992年、国際連合はソマリア暫定政権のモハメド大統領の要請を受け、安保理がPKO(国連平和維持活動)を実行することを決定し、アメリカのクリントン大統領はアメリカ軍を参加させた。アメリカ兵を主力とする多国籍軍がソマリアに派遣されると、アイディード派は硬化して国連部隊を攻撃し、パキスタン兵士多数が殺害されるという事態となった。モガディシュの戦闘 1993年10月、アメリカ軍は首都モガディシュを急襲しアイディード将軍の副官らを拉致しようとしたが、ヘリコプターが撃墜され、地上でもアメリカ兵がソマリア民兵に殺害されるなど、作戦に失敗した。この「モガディシュの戦闘」に衝撃を受けたアメリカ政府は、制圧は困難と判断して主力を撤退させた。国連PKO部隊も95年3月に撤退し、国連・アメリカの介入は失敗に終わった。
ソマリアで失敗したため、国連は多国籍軍の派遣に慎重になった。ソマリアの失敗への反省から消極姿勢に転じたルワンダでは、1994年に結果的に大虐殺を傍観することとなり、その困難さが浮き彫りになった。
内戦の深刻化
その後、各派はさらに分裂抗争を重ね混迷の度合いを深めていった。1998年には停戦に向けての協議に入ったが、それもまとまらず、地方政権が自立宣言を続け、統一はさらに困難になっている。2000年代に入って隣国ジブチやケニアの仲介で数回にわたり和平交渉が持たれ、暫定議会も発足したが、依然として各地域の部族勢力はそれぞれ独自国家の樹立を唱えており、まさに群雄割拠という状態が続いている。この間、旧イギリス領ソマリランドの「ソマリランド共和国」、旧イタリア領ソマリア北部の「プントランド共和国」(プントとは北ソマリアにあった古代国家の名称)、さらに南西部の「南西ソマリア」という三つの政権が分立し、正統政府を継承した暫定政府も大統領を選出しているがジブチやナイロビに亡命している状態で、全ソマリアを統治する権力は不在となった。
イスラーム急進派の台頭 2006年にはイスラーム法学者が組織したイスラーム法廷会議(ICU)がイスラーム法による統治を掲げて急速に力を伸ばし、その指導のもとにアルイスラーム急進派が首都を制圧した。しかしキリスト教徒の排除をおそれたエチオピアがアメリカ軍の支援を受けて国境を越えて介入、翌年1月に法廷会議勢力を首都から排除した。暫定政府とイスラーム法廷会議は2008年に停戦に合意した。
ソマリアの「海賊」 ソマリアの無政府状態が続くなか、アデン湾やアラビア海のソマリア沖で、航行中のタンカーや商船などの船舶が海賊に襲撃され、身代金などを奪われる事件が続いた。国際的な大問題となり、国連が共同で対策にあたることとなり、日本からも2011年から自衛隊が派遣され、ジブチに基地を置いて海賊取り締まりに当たっている。海賊といわれるのはソマリアの漁民であるが、彼らの言い分としては、無政府状態になったことを良いことに、日本などの漁船がソマリア領海でマグロなどの漁を行ったり、産業廃棄物を海域に投棄していくために生活ができなくなったからだ、といっている。また漁民の背後には各地方政権の実力者で出資している者がいると言う証言もある。
2010年代後半になって海賊行為は少なくなっているようだが、ソマリアの秩序が回復されなければ解決できない問題であることは確かなようだ。
参考 紛争の深刻化の背景
1990年代、ソマリアやルワンダで内戦が深刻化し、大量虐殺などが起こってしまった背景には、一つにはアフリカ大陸に大量の武器が流通していることがあげられる。また、自然災害が大きなダメージを与えた。アフリカの深刻な旱魃は1970年代の西アフリカからサヘル地域、スーダン、エチオピア、ソマリアに及び、80年代にも大きな被害をもたらしている。特にソマリアでは2010~11年にも大旱魃になり、内戦に加えて大飢饉となったため特に南西部で難民が大量に発生し、多くがケニアに逃れた。アルシャバーブ 米ソ冷戦構造が終わった1990年代以降、イスラーム圏では反米を掲げて国際的なテロを繰り返す、いわゆるイスラーム過激派が活発になった。ソマリアでも2004年に結成されたアルシャバーブ(アッシャバーブ)という組織はアル=カーイダ系とされ、ソマリアだけでなく隣国ケニアなどでも誘拐事件などを起こし、ケニア政府の掃討作戦が行われている。さらに掃討作戦に対抗する形で2013年にはナイロビのショッピングモール襲撃事件を引き起こしている。現在もアッシャバーブに対する掃討作戦はケニア軍を中心としたアフリカ連合のソマリア派遣部隊で続けられている。
安定と復興なるか
2012年9月、暫定統治期間が終了して大統領選挙が実施され、新大統領を選出、議会も選出され内閣も組織されて、正式な「ソマリア連邦共和国」が発足した。プントランド共和国や南西ソマリアは統合の見通しという。しかし、北部の旧イギリス領であるソマリランド共和国は依然として統合を拒否、別な国家であると主張している。ただし、ソマリランド共和国を承認している国はなく、世界の注目は正統な国家としてのソマリア連邦共和国がどこまで統一を回復し、秩序の安定と経済の復興を実現させることができるか、に注がれている。また、イスラーム原理主義アルシャバーブの反政府運動も終焉しておらず、まだ予断を許さない状態である。ソマリア難民 世界最大の難民キャンプ
ソマリア内戦を避けた多くの難民は、国境を越えて南のケニアに向かった。ケニア東部のダダーブ難民キャンプには約35万人を受け入れ、世界最大規模となっている(2015/5現在。35万人というのは川越市とほぼ同じ)。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が運営にあたっているが、ケニア政府はテロの温床になっているとして撤去を強く求めている。NewS ソマリア過激派の大学襲撃
2015年4月2日、難民キャンプから車で3時間ほどの距離にあるガリッサの大学をソマリアの過激派アルシャバーブが襲撃、148人が殺害される事件が起きた。ソマリア人過激派はケニアがソマリアを攻撃したことに対する報復としている。しかし軍と関係のない大学を襲い多くの若者のいのちを残虐な方法で殺害したことに、ケニアの政府と世論は激しく反発し、過激派がダダーブ難民キャンプを拠点にしているとしてその撤去をUNHCRに求めている。しかしUNHCRは難民をソマリアに戻せばその中の若者が過激派の戦闘員となって戻ってくるだけだ、として拒否している。<朝日新聞 2015/5/22>