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モンゴル帝国/大モンゴル国

13世紀初め、チンギス=ハンがモンゴル人とその周辺民族を統合した遊牧帝国。急速にその勢力を伸ばし、13世紀後半までにはユーラシア大陸の東西に及ぶ、世界史上で最も広大な領土を持つ帝国となった。

 モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部にあらわれたチンギス=ハンが、1206年に建設した大帝国。チンギス=ハンの時にモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶ大帝国を建設した。その形態は、チンギスの一族が支配する遊牧民や都市民、農民を含む国家としてのウルスが複合した、連合体であった。かれら自身はこの国家を「イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)」と呼んだ。また、チンギス=ハンは軍事組織として千戸制を編成、それがモンゴル帝国の行政単位ともなった。
 後にはその支配領域を中国全土、西アジア、ロシアにも広げ、さらに周辺諸民族も服属させ、大ハンの元を中心とするハン国(大元ウルス)に分かれて広大な帝国領を支配した。ハン(汗、カン)の位は、チンギス=ハンの血統をひくものの中から、一族の有力者会議であるクリルタイによって選出された。

領土の拡大

 第2代のオゴタイ=ハンは中国のを滅ぼし、都をカラコルムに定め、バトゥをヨーロッパ遠征に派遣した。バトゥの軍はロシアの地に侵入してキエフ公国を滅ぼし、さらに部隊をポーランドやハンガリーにまで進め、キリスト教世界に大きな脅威を与え、1241年にはワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破した。しかし、オゴタイ=ハンが死去したためバトゥは帰途につき、モンゴルの支配はロシアまでにと止まった。第4代のモンケ=ハンの時には、チベット、雲南を制圧、フラグを西アジア遠征に派遣して、その部隊はバグダードに入ってアッバース朝を滅ぼした。さらにエジプトへの侵入を目指したが、それは1260年のアインジャールートの戦いマムルーク朝軍に敗れたため、実現できなかった。こうしてユーラシア大陸の東西に延びる、世界史上最大の領土を持つモンゴル帝国が成立した。

フラグの西アジア遠征

 フラグはまず1256年には北部イランの暗殺教団を制圧、さらに南下してイラクに入り、1258年にバクダードを占領し、アッバース朝を滅ぼした。こうしてイラン高原からメソポタミアを制圧し、敵対する勢力はエジプトのマムルーク朝の勢力の及ぶシリアだけとなった。しかし、1259年にモンケ=ハンが急死したため、フラグはモンゴル帰還をめざして北方に撤退し、シリア計略を部将キトブカにまかせた。キトブカは第6回十字軍とも協力して1260年、ダマスクスを占領、。さらにエジプトのマムルーク朝遠征に向かったが、同年アインジャールートの戦いで、クトゥズとバイバルスの率いるマムルーク朝軍に敗れ後退した。

ウルスの分立

 第4代モンケ=ハンの死後はハイドゥの乱が起こり、乱後は宗家フビライ=ハンが統治しモンゴルと中国を領土とする元帝国と、フラグの建国したイル=ハン国、バトゥの建国したキプチャク=ハン国、チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3ハン国(ウルス)とに分かれることとなった。しかし、あくまで元の皇帝が大元ウルスハン(カアンとも称した)は宗主権をもっており、モンゴル帝国としての一体性は維持されていた。
現在は「4ハン国に分裂」とは言わない かつてはイル=ハン国、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国と共に、オゴタイを祖とするオゴタイ=ハン国があり、「4ハン国」と言われ、またそれぞれが独立性が高くモンゴル帝国は分裂した、と説明されていたが、現在はオゴタイ=ハン国の実体は無かったとされ、3ハン国とする説が有力である。山川出版社の『詳説世界史』も06年度改訂版から、「4ハン国」と「オゴタイ=ハン国」の記述が消滅した。また、3ハン国は互いに対立したが、いずれも元を宗主国としているので、モンゴル帝国としての一体性は維持されており、これをもってモンゴル帝国の分裂とは言わなくなっている。 → モンゴル帝国(ウルス)の分立

元帝国

 フビライ=ハンは1264年に大都(現在の北京)を都とし、71年に国号をに改めた。1279年に南宋を滅ぼして中国を統一、朝鮮半島の高麗を属国とし、日本遠征(元寇)など周辺諸国にも遠征軍を派遣した。この間、1266年から続いたハイドゥの乱も1305年に鎮圧され、その後は各ハン国も宗家の元に服属し、「タタールの平和」が実現し、2代目の大ハン成宗の時に元は全盛期となった。しかし、西方のハン国は次第に独自性を強め、イル=ハン国やキプチャク=ハン国はイスラーム化した。

ユーラシアの東西交渉

 広大なモンゴル帝国は、首都カラコルムを中心に駅伝制度(站赤、ジャムチ)が整備され、ウイグル人、トルコ人、イスラーム教徒などの商業活動が広く展開された。ヨーロッパは十字軍の展開されていた時代の後半にあたり、ポーランド・ドイツへのモンゴルの侵入は大きな脅威となったが、西アジア方面ではイスラーム勢力と対抗上、モンゴル帝国とも結ぶ動きもあった。そのような中から、13世紀の後半にはローマ教皇インノケンティウス4世によるカルピニ、フランス王ルイ9世によるルブルックらのモンゴルへの使節を派遣となり、またイタリアの商人マルコ=ポーロは元の大都に赴き、フビライ=ハンに仕えるなど、東西交渉が活発になった。

元の滅亡

 14世紀には、元ではハンの地位をめぐる内紛が続いて安定せず、またチベット仏教保護による財政難、交鈔の濫発による経済の混乱などのために社会の不安定が続き、漢民族のモンゴル人支配に対する反発が強まった。1351年に白蓮教徒という民間宗教の団体の反乱から始まった紅巾の乱が拡大し、1368年に南京に成立した明朝が、軍を北上させると元は大都を放棄して元は滅亡し、モンゴル高原に後退した。

モンゴル帝国の残照

 また、キプチャク=ハン国では15世紀末にモスクワ大公国が自立し、チャガタイ=ハン国では14世紀にティムールが台頭するなど、モンゴル帝国のユーラシア支配は終わりを告げた。しかし、中央アジアのティムール帝国やインドを支配したムガル帝国はいずれもチンギス=ハンの後継者をもって自認し、モンゴル帝国を継承したことを権威の拠り所としている。
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ノートの参照
第6章3節 ア.モンゴルの大帝国
書籍案内

杉山正明
『モンゴル帝国の興亡』上
1996 講談社現代新書