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ジャムチ/站赤/駅伝制

モンゴル帝国で整備された交通網と交通システム。首都大都(北京)につながる交通網が整備され、役人は牌符を携行した。

モンゴル帝国の交通

 モンゴル帝国のもとではユーラシア大陸の東西を統一権力のもとで治安が安定し、また内陸部の駅伝制(ジャムチ)や大運河、沿岸部の海運などの交通網が発達した。そのため東西交易が陸路、海路ともに活発になり、経済が発展して紙幣として交鈔も用いられるようになった。東西貿易では色目人と言われた西方出身の人々が活躍し、広州・泉州や広州にはムスリム商人が来航して東南アジアやインド洋方面との南海貿易を活発に行っていた。フビライの積極的な遠征も、このような商業圏の拡大を求めたという面もある。また元朝の国内の農村では、宋代以来の郷村のなかの漢人の大土地所有者が成長しており、経済活動を支えていた。

元の駅伝制 ジャムチ

 モンゴル帝国の交通通信網はオゴタイの時の1229年ごろまで制度化された。モンゴル語でジャムチ(漢字で站赤と書く)というのは、ジャムが「道」や「駅」を意味し、チは接尾語で「人」の意味なので、ジャムチとは「駅に携わる人」の意味であるが、一般に駅伝制と訳されている。站赤の站(たん)は駅と同じ意味で、主要道路に10里ごとにおかれる宿駅のこと。宿駅には100戸の站戸(たんこ)が属し、人馬を提供した。駅伝を利用するのは公用の旅行者は、通行手形として牌符を携行した。中国では駅伝制はモンゴル以前にも発達しており、またオリエントのペルシア帝国などの世界帝国にも見られたシステムであった。 このジャムチは、20世紀にシベリア鉄道が開通するまで、ユーラシアでの最速の情報伝達システムであったとされている。

資料 マルコ=ポーロの伝える駅伝制

 元代の駅伝制を見聞したマルコ=ポーロは次のように伝えている。
(引用)国内諸地方に通じる主要道路上には、25~30マイルごとに宿駅が布置されており、各宿駅に三百~四百頭のウマが準備されて使臣の自由な使用を待っているし、宿泊設備にしても上記のような館があって、豪奢な宿泊ができるのである。しかもかかる施設は、カーンの政令が行われているすべての王国を通じて整備されているのである。・・・・以上のような制度によって、カーンの使臣たちは行く所いずくにおいても宿舎がありウマが用意されていて、日々の旅行に不便がない。この事実こそは全く、古来のいかなる帝王・いかなる人物によってもなしえられなかった壮大さ偉大さを如実に示す最も輝かしい証拠である。考えてもご覧なさい。使臣の用に供するだけでも二十万頭の馬匹がこれら宿駅に飼養されており、その上になお一万以上の館が上記のように豪奢な設備を整えて設けられているのですぞ。全く驚嘆に値する事柄であって、その富厚さはとても筆舌では尽くしえないところである。<マルコ=ポーロ『東方見聞録』1 愛宕松男訳 東洋文庫 p.253>
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マルコ=ポーロ
『東方見聞録』1
愛宕松男訳 東洋文庫