印刷 | 通常画面に戻る |

達磨

6世紀初め頃、インドから中国に渡り禅宗の祖となった伝説的な僧侶。洛陽校外の少林寺で九年間坐禅を続けた。

 達磨は中国における禅宗の開祖とされる僧侶。伝説的な部分も多く、その生涯でわからないこともあるが、実在の人物であることはたしかで、中国、さらに日本で独自に発展した仏教である禅宗の始祖としては重要である。6世紀の初めインドから中国に渡来した達磨は梁の武帝の時の南京に赴き、その後洛陽校外の少林寺で坐禅を続けたとされる。すでに中国仏教は一定の広がりをみせ、権力と結びつく面の出ていたが、達磨が始めたひたすら悟りを求める禅の教えは新鮮な驚きでむかえられ、魏晋南北朝の文化にも影響を与えた。
 その教えは、弟子の慧可(えか)を経て、唐の時代の6代目慧能(えのう)の時に一つの教団としての禅宗が形成され、唐の仏教のなかでも独自の発展を見せ、朝鮮・日本でも盛んになった。日本でも「達磨さん」といわれてなじみの深いキャラクターになっている。
(引用)歴史上の達磨の伝記はよくわからないが、その生国は波斯国(中央アジアの一国)または南天竺国(南インド)とわれる。般若多羅の法を継ぎ、中国に渡来した。527年に広州に到着したともいわれる。その後、達磨は嵩山(すうざん)少林寺に入り、面壁すること9年であったと伝えられている。……嵩山の五乳峰の中に達磨洞がある。深さ5メートル、広さ約3メートルの天然洞窟で、最も深い処に仏像が彫ってある。この洞窟の中で達磨は面壁九年したといわれる。九年間、壁にむかってひたすら坐禅をしていたのである。」<鎌田茂雄『仏教の来た道』2003 講談社学芸文庫 p.227-229>

Episode 梁の武帝と達磨の問答

(引用)達磨はいったいどういう人だったか。南天竺の香至国の第三皇子で、菩提多羅というのが本名である。生年も詳らかでない。ざっと千五百年も前のことだ。いくつの頃かしらぬが、中国の梁の時代、普通元年(520)に印度からやってきた。一説では、広東省広州に上陸。あるいは大理国(雲南省)を経てきたなどといわれるが、とにかく、広州の刑吏が目撃して、印度からかわった沙門がやってきたと、梁国の武帝に報告したという。武帝は熱心な仏教信者だった。梁都の金陵で達磨をむかえた。今の南京である。有名な問答が『続高僧伝』に出ている。

慧可断臂の図 雪舟筆
「貴僧はどんな教法をもって、衆生を済度されるのか」
「一字の教えももってきていません」
「朕は、即位以来、寺を建て、人を救い、写経もし、仏像もつくったが、いかなる功徳があるのだろうか」
「無功徳」
達磨は、さらにいい足した。
「それらのことは、みな形にあらわれた有為の善行ではあるが、真の功徳とはいえません」
「真の功徳とはどういうものか」
「廓然無聖」(からりとして何もなく、聖も賤もない、という意味)
武帝は声をあららげて「朕に対する者は誰だ」といった。達磨は
「不職」
と答えただけであった。・・・達磨は仏法に縁のない帝王だとわかった、梁都を去って揚子江をわたって洛陽にゆく。魏の国へ行ったのだ。(そのとき達磨は葦の葉にのって川を渡ったという)<水上勉『禅とは何か―それは達磨から始まった―』1988 新潮選書 p.15>

Episode 慧可の断臂入門

 達磨は洛陽の近くの嵩山少林寺に入って、終日壁に向かって坐禅していた。「印度からきてただすわっている髭むじゃらの僧を、人々はオカシイと思うだけで、理解できなかった。」ところが勉強家の神光という沙門はぜひその教えを聞きたいと思い、少林寺を訪ねた。しかし達磨は面壁端坐するのみで、何もいわぬ。雪がふる夜、夜明けまで門前に立つ神光にようやく声をかけた。このとき神光は隠し持った刀で左臂(ひじ)を断った。鮮血が雪に散った。達磨は「今、お前さんは私に臂を斬ってみせて道を求めている。その求道心はよろしい」といって弟子になることを許し、神光は慧可(えか)という名をもらった。
 この場面を描いたのが、雪舟の「慧可断臂の図」。奥で坐禅をしているのが達磨。左手前の慧可は左手に斬りつけている。慧可は達磨の禅を伝え、禅僧の二祖とされている。<水上勉『前掲書』など>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
3章2節 エ.魏晋南北朝の文化
書籍案内

鎌田茂雄『仏教の来た道』
講談社学術文庫 1995

水上勉
『禅とは何だろうか』
新潮選書 1988

水上勉は9歳で禅寺に預けられ、19歳で寺を抜け出し、さまざまな職業を転転としながら、1961年、小説『雁の寺』で作家デビュー。60歳を過ぎて禅の師僧の足跡を訪ね中国を旅した。