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魏晋南北朝の文化

3~5世紀の中国の文化の傾向。

 魏晋南北朝時代の文化の特徴は次のようにまとめることができる。

(1)多様で新しい文化

 三国から南北朝の動乱期にあたり、多様な思想や文化が生まれた。従来の国教としての儒教に代わり、西方から仏教が伝来し、また民間から発展した道教が盛んになって、多様で新しい思想を生み出した。特に仏教は、一時弾圧されることもあったが、敦煌雲崗竜門の石窟寺院が造られ、南朝でも独自の発展をみた。北朝では遊牧民の生活習慣が漢文化に融合していったほか、『斉民要術』・『水経注』、医学書の『傷寒論』など、自然科学が発達した。

(2)貴族文化の繁栄

 三国時代の魏の九品中正制などによって門閥貴族が形成され、その社会的地位が安定すると、貴族たちは儒教にとらわれない自主的で自由な議論を展開するようになった。その代表的な存在が魏から西晋にかけての竹林の七賢などである。貴族は仏教を受容し、また絵画、書、文学などの担い手となった。

(3)六朝文化の展開

 江南では建業(後に建康。現在の南京)を中心に、漢文化が継承された。華北が北方民族の王朝に支配された時期に、江南では文学や絵画で貴族を主体とした六朝文化が栄えた。六朝文化の代表的な人物には、詩文の陶潜(陶淵明)謝霊運昭明太子、絵画の顧愷之、書の王羲之らがいる。

Episode だぶだぶの服とサンダルの流行

 魯迅が1927年に広州で行った講演「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」のなかで、魏晋の時代に薬を飲むことが始まり、それが当時の風俗に影響を及ぼしたという、おもしろい説が紹介されている。
 魏の明帝(曹丕=文帝の子、魏の第二代 在位226-239)のころ、曹氏の一族に何晏という人がいた。かれは空談(清談)の開祖であるとともに、好んで薬を飲んだ服薬の元祖であった。彼が飲んだのは普通の薬ではなく、「五石散」という一種の毒薬で、石鍾乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂を調合したものだった。身体が弱かった何晏が五石散を調合して飲んだところ、元気で丈夫になったため、高価であったがまねをする人が続出した。しかし、この薬は調合を間違えると大変なことになり、また良薬がそうであるように副作用も大きかった。これを飲んだ後は休んではいけい。歩かなければならない。薬の効き目がでることを「散発」というが、そのために歩くことを「行散」という。当時の詩文に「行散」という文字があるのを、たんに散歩と解するのは間違いで、それは服薬後の散発のためだった。
 歩いた後は全身が発熱し、発熱の後は悪寒がしてくる。そこで服をたくさん着たり暑いものを食べると、必ず死んでしまう。薬を飲んだあとは、服をぬいで、冷たい水で行水して、冷たいものを食って、熱い酒を飲む。そこで五石散を飲む人が増えると、厚着をする人が減る。また皮膚が熱するために、ぴったりした服を着ていることができないので、みなだぶだぶの服を着なければならない。現代人の目で晋代の風俗を見ると着ているものも帯も、上から下までだぶだぶである。それは当時の人の高逸の現れだと考えがちだが、じつはかれらが服薬していたからなのだ。また薬を飲んだあとは皮膚がむけやすくなっているから、靴や靴下をはかず、サンダルをはくようになった。
(引用)ですから、晋代の画像や、そのころの文章で、服はだぶだぶ、靴のかわりにサンダル、というのはきっといい気持ちだろう、瓢逸なものだ、と思うと大まちがい、じつはかれらの胸は、非常に苦しかったのです。おまけに、皮膚がむけやすいから、新しい服は着られない。古い服を着る。洗濯もしょっちゅうはできない。洗濯をしないから、虱(シラミ)がわく。そのため文章においても、虱の地位が高まりました。「虱を掻きながら談ずる」のが当時は風流とされました。もし私が、この演壇で虱を掻きましたならば、あまりほめたことではありませんが、当時は平気でした。・・・<魯迅/竹内好訳『魯迅評論集』1981 岩波文庫 p.174>
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第3章1節 エ.魏晋南北朝の文化
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魯迅/竹内好訳
『魯迅評論集』
1981 岩波文庫