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道教

老荘に始まる道家の思想が、民間信仰の神仙思想などとと融合し、後漢末に宗教として成立し、中国独自に展開した。北魏では国教とされ、唐でも保護された。

 道教(Taoism)は、儒教とともに中国固有の宗教である。その源流は、春秋戦国時代の諸子百家の一つである老子荘子道家の思想(老荘思想)を中核として、それに原始的なアニミズムから始まる神仙思想、易および陰陽五行説讖緯説などが融合した宗教と言える。とくに老子と荘子の「道」の思想(「道」は天地よりも先にあって、すべてのものを生み出す根源であり、人間の知恵を超えた、世界を支配する根本原理とする)が道教の基本理念となり、老子が道教の祖と考えられている。道教教団の初めは、2世紀半ばの後漢の張角太平道であり、後漢末の農民反乱である黄巾の乱の原動力となった。さらに後漢末の張陵などの五斗米道天師道とも言われ、四川を中心に大きな勢力となった。
 五斗米道(天師道)は張陵の子孫を天師として教団国家を作り上げたが、後漢末の三代目の張魯のとき、魏の曹操によって四川の根拠地を追われ、信者は中国の南北にに散らばった。その後も道教の信仰は一部で熱心に続けられており、東晋で書家として名高い王羲之は道教(五斗米道)の信者だったという。

北魏での保護

 道教ははじめは符呪(おふだやまじない)が中心の、不老不死(壽)、金銭的な豊かさ(禄)、家庭の幸福(福)などの現世利益を求める宗教であったが、そこに老子や荘子の「道」の道徳観や易の宇宙観を取り入れ、さらに仏教の慈悲と救済の思想を取り入れて一つの宗教体系となった。特に北魏の寇謙之が進めた天師道の改革によって生まれた新天師道太武帝によって442年に北魏の国教とされ、保護されることによって隆盛を迎えた。
 しかし、不死の修行をしたはずの寇謙之は448年にあっけなく死去し、また太武帝自身も452年に死んでしまったため、北魏の道教熱は急速に冷めたようだ。次の文成帝は仏教への復帰を宣言した。

江南の道教

 道教は北朝では北魏の後に衰えたが、南朝では従来の五斗米道の活動が各地に広がり、貴族層にも信仰が浸透した。劉裕が建てた南朝のの諸天子が尊崇した道士の陸修静(406~477)は、天師道の綱紀粛正に努め、またバラバラだった道教系の経典を集めて分類し「三洞」にまとめた。道教が仏教や儒教に対峙できる宗教となったのはこの時とも言える。<横手裕『中国道教の展開』2008 世界史リブレット96 山川出版社 p.31>

道教教団の成立

 道教は、その後も仏教に対抗して教団組織を発展させ、仏教の僧侶にあたるものが道士、寺院にあたるものが道観といわれ、各地につくられた。また11世紀はじめには、仏教の大蔵経にならって「老子道徳経」などの教典が「道蔵」として編纂された。

唐の道教国教化

 唐では道教は国教として保護の対象となっていた。その直接的な動機は唐王朝を建てた李淵・李世民親子が同じ李姓の老子を始祖とする道教を信仰したからである。しかし当初は他の宗教に対しても寛容で、同時に貴族層に盛んであった仏教も保護を受けていた。また、都長安の国際的な文化の一面として、三夷教といわれる景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教祆教)、摩尼教も盛んだった。これらの宗教の間で教義論争が行われることもあった。その中で玄奘や義淨によって新たな経典がもたらされたこともあって仏教が優勢になり、長安にも多くの官寺が建立されるようになった。
唐の武宗の道教 しかし、仏教寺院が華美になってその保護が国家財政を圧迫するようになると、9世紀の武宗(在位840~846)の時には道教側の巻き返しがあり、武宗自身も熱心な道教の信者であったことから、激しい仏教弾圧が行われた。それが三武一宗の法難の一つである会昌の廃仏である。このとき道士はさかんに武宗に不老不死の仙薬を勧め、武宗もその言を信じて道教を保護した。その背景には仏教寺院への過度な保護が財政を脅かししていたことから、大寺院の荘園を公有地に収め僧尼を還俗させて両税を課することを目指したとも考えられる。ただし武宗が道教を過信したあまりに仙薬を多用して自ら狂死してしまったことから、このときの道教保護は長く続かなかった。

道教の転換

 唐、宋時代を通じて国家の保護が続いたが、そのために道教の教えは次第に体制化し、民衆から離反していった。金の王重陽はそのような道教の改革にあたり、現世利益の面を弱め、禅宗の要素を取り入れて精神性を高めた全真教を起こした。一方、南宋では従来の天師道系の道教が正一教と言われて民間に行われた。元以降は教団としての道教は衰えるが民間には様々な神々をまつる民衆道教として生き残っている。<村上重良『世界宗教事典』講談社学術文庫版などを参照>

全真教と正一教

 元代の末期には、道教は河北を基盤として定着した全真教と、江南で優勢となった正一教が二大宗派となり、その他の諸派は両者の傘下に入るか消滅するかとなった。明代の初めには、道教は国の制度として全真教か正一教かの二つに分けられ、以後その形式は今日に至っている。
 両派は道観を拠点として、道士が宗教儀式を執り行うなど共通する面も多いが、基本的な性格を異にしていると言ってよい。全真教は北京の白雲観を総本山とし、初真戒・中極戒・天仙大戒の三ランクの戒律の伝授によって道士の資格と位階を与える授戒制度を基本としている。道士は出家が要求され、禅宗寺院と同じような厳しい規律に従った生活を送らなければならない。一方、正一教は龍虎山を総本山とし、天師道で伝統的に行われてきた符籙の伝授によって道士の資格と位階を与える「授籙」制度を基本としている。正一教では道士は妻帯可能であり、世襲で宗教活動を行う場合も少なくない。実際には両派には幾つかの分派が存在し、その変遷は流動的である。また明清時代の民間の道教には時期ごとに流行した神仙術があり、多種多様である。また、道観の中でも観音が祀られたり、仏教寺院で関羽が祀られたりするのがふつうで、道教なのか、仏教なのか、あるいは儒教なのかは区別が難しい。

現代の道教

 道教は近代に入ると、迷信や単なる風習に近いものとして軽視され、あるいは批判されるようになった。特に辛亥革命後の中華民国では、中国の後進性の表れと認識されるようになり、五・四運動などでは強い非難の対象となった。戦後の中華人民共和国のもとでは道観の所有地の大部分が解放され、道士は生活でも苦しくなり、さらに文化大革命で宗教全般が否定されたこともあって、道教は特に人民を惑わす危険な悪習と見做されて禁止され、道士は還俗させられ、道観は閉鎖されてほぼその宗教活動は出来なくなった。
 しかし、民衆は密かに道教信仰を続け、神々を祀っていたようで、文化大革命が終わり信仰の自由が保障されるたことで多くの道観や道士の活動も復活している。<現在の中国における道教については、窪徳忠『道教の神々』1996 講談社学術文庫を参照>
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書籍案内

窪徳忠
『道教の神々』
1996 講談社学術文庫

横手裕
『中国道教の展開』
世界史リブレット96
山川出版社 2008

福永光司・千田稔・高橋徹
『日本の道教遺跡を歩く』
2003 朝日選書

坂出祥伸
『道教とはなにか』
2017 ちくま学芸文庫