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禅宗

6世紀のインド僧達磨が中国に渡来して始まり、唐代に中国独自発展した。宋代にさらに盛んになり、日本にも強い影響を与えた。大乗仏教ではあるが、不立文字など自力での悟りを求めるのが特色。

 仏教の一派である禅宗は、中国仏教の中で独自に発展したものである。大乗仏教の『般若経』にある空の思想に中国の老荘思想が融合して、独自の精神文化を形成した、ということができる。経典などを学ぶよりもひたすら瞑想することによって仏陀の精神を直接みること、つまり悟りを開くことを説く自力仏教として発展した。

禅宗とは

 禅とはサンスクリット語(梵語)の Jhana の音を漢字で表した禅那の省略形である。もとの意味は「静慮」であり、心を集中して正しく思惟するため坐禅を組むという仏教の修行法の一つである。坐禅は戒律とともに仏教修行の基本的要素の一つであり、どの宗派でも行われるものであったが、禅だけを重んじる宗派が現れ、それが禅宗と言われた。禅宗では、その教えは言葉や経典で伝えることはできないので、「教外別伝」とか「不立文字」といい、直感的な悟りの境地は、師が弟子に質問する(公案という)ことで弟子が自ら体得するものとされた。

Episode “今日は曇っているから答えない”

(引用)禅とは何かと聞かれて、趙州は答えて言った、「今日は曇っているから答えない」。
 同じ問いに雲門の答えは、「それだ」であった。また別の折には、師は全然肯定的ではなかった。かれは言った、「言うべき言葉は一つもない」。<鈴木大拙/工藤澄子訳『禅』1987 ちくま文庫 p.125>
 禅の大家鈴木大拙は、同書でこのようにも言っている。
(引用)くりかえしていう。禅を概念化してはならない。それはどこまでも体験的に把握すべきものである。しかしわれわれ人間は、誰も無言ではいられない。何らかの方法で自己を表現しなければならない。もし経験に表現を与えることをやめるならば、われわれは一つの体験すら持ち得ないことになる。一切の伝達の方法を奪われては、禅は禅で無くなるであろう。・・・禅の概念化は避けられない。<鈴木大拙『同上書』 p.167-168>
 かくして「不立文字」であるはずの禅の極意も、「文字」でしか表せないと言うことになるのか。鈴木大拙の『禅と日本文化』の第一章「禅の予備知識」をみてみよう。
(引用)禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。その真の始まりはさらに早く、六世紀の初め、南インドから中国に来た菩提達磨から起こったのである。その教義は大乗仏教の一般教義と変りはない。その教えるところも、もちろん一般の仏教のそれである。しかし、禅の目的は、インド・中央アジア、そして中国においても、その発展するにしたがって建設者の教えの周囲に堆積したいっさいの皮相な見解を除去して、仏陀自身の根本精神を教えんというにある。これらの「皮相な見解」は儀礼的、経典的であり、かつ民族心理の特殊性にもとづくものといってよい。禅は仏陀の精神を直接に見ようと欲するのである。<鈴木大拙/北側桃雄訳『禅と日本文化』1940 岩波新書 p.2>
では仏陀の精神とは何か。それは般若(ブラジュニヤ=智慧)と大悲(カルーナ=愛)であると、鈴木大拙は説く。これからさきは彼の著作をお読み下さい。その著作は多いが、上記引用の二書が比較的手にしやすいように思われます。

中国で発展した禅宗

 禅宗の始祖の達磨、いわゆる「だるまさん」は、正しくは菩提達磨 Bodhi-dharma といい、南インドの王族に生まれ、南朝の宋・梁のころ広州に渡来し、さらに北魏の都洛陽で教化にあたった。しかし洛陽では受けいれられず、少林寺に入り、面壁黙座(壁に向かって黙って座り続ける)を行い、528年に没した。その禅の実践を重んじる「不立文字」の精神は弟子の慧可(えか。東魏、北周で活躍)らに引き継がれ、その後も相伝され、8世紀の慧能によって禅宗教団としての組織化が出来上がり、唐の仏教隆盛の中で独自の地位を占めた。中国禅宗の有名な寺が河南省の少林寺で、唐王朝との特別なつながりが強い。その後、禅宗にはさまざまな宗派が分かれたが、達磨の十世の法統を継いだ臨済義玄が開いた臨済宗と、洞山良价とその弟子の曹山本寂との流れを汲む曹洞宗とが日本に伝えられた。中国の禅僧については、<鎌田茂雄『中国の禅』1980 講談社学術文庫>に詳しい。

Episode 最初に「喝――!」と言い出した禅僧

 臨済とは「川のほとり」の意味で始祖が河辺に小庵をむすんだのでそう言われる。その主著は『臨済録』で現在も臨済宗寺院では修行の拠り所となっている。臨済の師は黄檗であったが、師のもとに入堂するたびに三十回棒で殴られてた、あきらめてほかの師について修行したのち黄檗を訪ね、こんどは黄檗の横っ面を一発ひっぱたき、喝――!と怒鳴りつけた。それでようやく入堂を許されたという。今でもよく聞く「喝」を最初に言い出したのは臨済だった。<水上勉『禅とは何か―それは達磨から始まった―』1988 新潮選書 p.28-31>

宋の禅宗の流行

 さらに宋代には禅宗は士大夫層に受け入れられ、民間に広がった浄土宗と共に中国仏教の主流となった。禅宗が士大夫に受けいれられたのは、自己の主体性の自覚に重点を置くことが彼らの関心に合致したためであろうと考えられる。また、朱子学や陽明学などの儒学の復興にも大きな影響を与えた。 → 宋代の文化
(引用)宋朝の勃興と共に、禅の発展と影響はその絶頂に達したが、他方、他の仏教宗派は急速な衰微のきざしを示した。歴史が元および明のページを開くと、仏教すなわち禅ということになった。華厳、天台、三論、倶舎、法相、真言等は、迫害の結果、絶滅しないまでも、新鮮な血液の欠如ゆえに、非常な痛手を蒙った。これらの宗派は、中国人の考えや感情に完全には同化しなかったので、おそらくどの道、滅亡するものだったのであろう。そこにはあまりにもインド的要素が強く、それが、これらの宗派が十分に中国の風土に同化するのを妨げたのであった。とにかく、禅は、仏陀の心の真髄として繁栄を続け、仏教に心を寄せるほどの中国の人々は禅の研究を取り上げた。・・・中国で今日なお、ある程度の活力を保っている仏教の唯一の形は禅である。ただしこれは、中国に仏教が紹介された直後から発達を始めた浄土教的傾向に迎合して、多かれ少なかれ変形を遂げている。<鈴木大拙/工藤澄子訳『禅』1987 ちくま文庫 p.119-120>

日本の禅宗

 禅宗は奈良時代には日本に伝えられなかったが、平安末期に二度にわたって宋に渡った日本僧明菴栄西(みょうあんえいさい、またはようさい)が臨済宗を学んで日本に伝えたことから、禅宗受容が始まった。栄西はけして禅のみを主張したのではなく、天台と真言の密教との融合を説いたのであったが、それでも京都では旧仏教の天台宗(延暦寺)がその布教活動を認められなかった。1199年に鎌倉幕府に招かれて鎌倉に入り、本城政子に保護され寿福寺を開くなど、幕府との結びつきを深めた。禅宗ははじめ達磨宗といわれ、一段低く見られていたが、1202年に栄西が京都に建仁寺を建立するなど、次第にその地位を高めていった。鎌倉幕府の執権北条時頼・時宗親子は深く臨済宗の保護に努め、宋から蘭溪道隆、無学祖元などの臨済宗の禅僧を招き、建長寺・円覚寺などを開いたため、まず鎌倉で盛んになった。鎌倉時代の武士は、生死の覚悟を必要とし、他方で新たな支配階級としての主体性を必要としたことから禅宗を支持したのであろう。
 一方、臨済宗が幕府と朝廷という権力に結びついたのに対して疑問を持った希元道元は、自ら渡宋して拠り純粋な坐禅を重視する曹洞宗を伝えた。道元は北条時頼に請われて鎌倉に入ったが、臨済宗が権力と結びついているのをみて、鎌倉にとどまらず、越前の山中に道場として永平寺を創建した。こうして鎌倉仏教のなかで大きな潮流となった禅宗は、臨済宗と曹洞宗の二派が対抗しながら発展(江戸時代始めに黄檗宗が加わる)していく。
禅僧の日中往来 南宋から元にかけて日本に来た禅僧は蘭溪道隆・兀庵普寧(ごったんふねい)・無学祖元・一山一寧など多数にのぼっている。また、彼らから禅宗を学んだ日本人僧侶のなかにも、栄西に続いて宋に渡り、直接現地で学んで帰ってくる僧も多かった。栄西の弟子の円爾弁円は宋に渡って帰国した後、東福寺を創建した。多くの渡来宋や渡宋僧が活躍した鎌倉の建長寺や円覚寺は、禅宗だけではなく、禅宗様式の建築やさまざまな文化がもたらされ、問答も中国語で行われていたのであり、さながら一大国際交流センターであった。また最先端の外国文化に触れることのできる場であったのであり、執権北条氏が臨済宗を保護したのは、そのような外来文化を独占するという意図もあったと思われる。また、そのような状態は元寇の前後も変化しておらず、依然として文化交流や私的貿易は日中間で盛んだった。 → 日元貿易
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ノートの参照
3章3節 イ.唐の制度と文化
6章2節 オ.宋代の文化
書籍案内

鈴木大拙/工藤澄子訳
『禅』
1987 ちくま文庫

鈴木大拙/北側桃雄訳
『禅と日本文化』
1940 岩波新書

鎌田茂雄
『中国の禅』
1980 講談社学術文庫

水上勉
『禅とは何だろうか』
新潮選書 1988