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寇謙之

5世紀ごろ、道教を新たに体系化した新天師道を興した教団指導者。北魏の太武帝に新任され、国教とされる。不老不死の修行をしたにもかかわらず死んだので、死後その権威は落ちた。

 こうけんし。五斗米道(天師道)以来の道教を新たに体系化し、新天師道を興し、北魏太武帝に信任されて、道教の国教化を実現した。
 後漢時代に中国に伝わった仏教は、4世紀の中国の五胡十六国時代に仏図澄や鳩摩羅什が渡来して、新たな救済の思想として民衆に広がり、中国仏教として定着を始めた。すると、従来の天師道系の道教の教えは、神仙説だけでは呪術的色彩が強く、見劣りがする古い教えに過ぎないと感じられるようになった。そこで道教の内部からも、仏教に見劣りしない理論を備えた宗教に高めたいという要望が強まった。そのような要請に応えたのが寇謙之のとなえた新天師道であった。

新天師道を興す

 洛陽に近い嵩山(すうざん、霊山の一つ)で神仙になる修行をしているとき、降臨した太上老君から、張陵以来空席になっていた天師に指名され、道教の革新を使命とするようになり、新天師道を興した。そのころ華北統一を進めていた北魏の都平城に赴き、そこで漢人儒者で太武帝に仕える崔浩と知り合い、ともにインド伝来の仏教を排斥することで一致し、太武帝に道教を国教とすることを建言した。それが太武帝の採用することとなり、寇謙之は国師となり崔浩は宰相となった。

Episode 寇謙之、神仙に導かれる

(引用)はやくから天師道に心を寄せていた寇謙之は、その服餌法を実行しても一向に効果がなかった。たまたま仙界から人間界に謫(なが)されていた神仙にあい、陝西省の華山や河南省の嵩山につれていかれてその指導をうけ、その神仙が去ってからはひとりで山中で修行を続行していた。すると降ってきた太上老君から天師の位と『雲中音誦新科の誡』を授けられ、これまでの道教を改めて、新しい道教を興すよう命じられた。<窪徳忠『道教の神々』1996 講談社学術文庫 p.97-98>
 寇謙之の道教を新天師道というが、その新しさは、神仙説の養生術を中心としながら、儒教の礼を加え、房中術や信徒から米と銭を取ることなどを止めた点にある。そのうえで、新しい教団組織を整え、修行の段階、服装、神々の系列その他を制度化した。これによって道教教団は形を整えたので、一般に新天師道を以て道教の大成と見なされる。

北魏の国教となる

 寇謙之は新天師道を率いて北魏の都に上り、仏教嫌いの大臣崔浩の推挙によって太武帝の信仰を獲得し、442年、ついに道教を北魏の国家的宗教にすることに成功した。
太武帝の廃仏 太武帝は順調に周辺諸国を降伏させて行き、439年までに五胡十六国に分裂していた華北統一を完成させた。それによってその領土が西域に及んだため、西域で盛んであった仏教が華北にさらに流入することとなった。太武帝の下で統一事業を助けた漢人の儒者である崔浩は、儒学と道教の従来の漢民族の伝統による統治を太武帝に強く進言、太武帝も寇謙之の新天師道を国教にするほど熱心に信仰するようになった。こうして、外来の宗教の排除というねらいから、446年、太武帝は仏教弾圧を断行(廃仏)した。
 こうして寇謙之と崔浩の名声は高まり、道教教団は国教として栄えたが、崔浩が国史事件(太武帝の項を参照)で失脚し、寇謙之が死ぬと、北魏宮廷内に仏教への復帰の動きが出てきて、新帝文成帝は仏教復興の詔を出した。また寇謙之の開いた新天師道も、その死後は活動がなくなり、従来の天師道に吸収されたと思われる。
(引用)しかし寇謙之はふつうの人とあまり変わり映えなくあっけなく死去し、有能な後継者もあらわれず、そのまま世のなかはもとにもどった。ただ、天子がここまで道教にいれあげ、国を傾けて信仰したのは前代未聞であり、歴史上特筆すべきできごとであった。横手裕『中国道教の展開』2008 世界史リブレット96 山川出版社 p.31
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