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五斗米道/天師道

後漢末に起こった新興宗教の教団の一つ。黄巾の乱の反乱と結びついた。後の道教の源流となった。

 後漢末に、太平道と同じ頃、四川省から陝西省にかけての一帯で起こった新興宗教の教団。その創始者張陵(かつては張道陵と言われたが、張陵が正しい)は、信徒に老子道徳経を読ませ、自らを天師と呼び、天・地・水の三神に罪を悔い改めの懺悔告白をすることで病気などの悩みから解放されると説いた。教団は信徒に五斗(日本の約5升。1升=1.8リットルとすれば、約9リットル。つまり10リットルに近い※)の米を出させたので、「五斗米道」と言われるようになった。 → 後漢の滅亡
※注意 五斗の量 五斗米道の五斗米については、約1リットルとする説明もある<旧版岩波講座世界歴史5 東アジア世界の形成Ⅱ 黄巾の乱と五斗米道(大淵忍爾)1970 p.42>。山川出版社世界史用語事典(2008)では米5斗(約9リットル)としていたが、現行版(2014)では( )が消え、5斗がどのぐらいにあたるのかは説明していない。当然知りたくなることであると思うが、古代中国の単位の換算には難しい問題があるのかも知れない。ここでは各種概説書の5斗=約5升=約9リットルに従っておく。なお、wikipedia では「五斗(=500合=当時20リットル)」としているが、根拠は分からない。
 もっとも、「五斗米道」そのものが、高校教科書山川詳説世界史では、2003年の改定で消えている。

宗教国家を形成

 彼らは184年、太平道とも連携しながら挙兵し、黄巾の乱が鎮定された後も、張陵の子の張衡、孫の張魯の三代、30年にわたって存続した。張魯は漢中地方(関中と四川の中間)の地方長官を追い出して宗教王国を築き、道路の傍らに無料の宿泊所を建てて旅行者の便に供するなど、社会事業を行った。
張魯、曹操に降伏 後漢末の群雄割拠の中で台頭し、華北を平定した魏の曹操が、215年に漢中に進出すると、張魯はあっけなく曹操に降伏し、五斗米道の独立王国は崩壊したが、宗教としては魏の支配のもとで許され、その後も長く続くこととなった。

五斗米道から天師道へ

 五斗米道は指導者の張陵や張魯を「天師」と言っていたことから、天師道とも言われ、後の道教につながっていく。五斗米道から天師道への変化は次のような経過をたどった。
張魯の後の教団 張魯が曹操に降伏した際、三男の張盛は父の命によって五斗米道の第四代教主となり、父祖伝来の剣、印、経籙などをもって江西省貴渓県の竜虎山にいった。そして張陵が金丹をつくろうとした炉のあとを見つけたので、ここを本山として五斗米道を再興したといわれているが、この伝承は疑わしい。張盛以後は系統が異なると思われるので、張魯までを五斗米道、張盛以後を天師道として区別する。
孫恩の乱 張魯の降伏したのち、有力なそのその部下たちが独立してそれぞれ宗教活動を始めたので、一宗派としてのまとまりはなくなったらしい。東晋で反乱を起こした孫恩は、自分たちの仲間を長生人とおび、数年のあいだ江蘇、浙江方面をあらしまわったが、ついに敗れて海に飛び込んで自殺した(402年)。そのとき、仲間の人々はかれが水仙になったと信じて、大ぜいが続いて海に飛び込んだという。このことから、4世紀末の天師道には神仙思想が加味されたことが分かる。

Episode 中国版カルト教団の反乱

 399年、建康の東晋政府は、長江下流デルタの小作人を兵士に徴発しようとした。最も生産力の高いこの地域が騒然とするなかで、孫恩の乱が起こった。孫恩は道教系の五斗米道の信者でみずから「長生人」、つまり永遠に不死なるもの、と名のり、教団を率いて反乱を起こした。決戦を覚悟した孫恩は、信者たちにの連れている赤ん坊が足手まといになるので、これを水中に投げ込ませた。かれらには入水して永生者になるという「水仙」の信仰があった。狂信の母たちは「おめでとう。おまえはさきに天国に上るのよ。わたしもあとからおまえのところに行くよ」といいながら、子どもを水の中に投げ込んだのであった。孫恩集団は狂宴を催しながら急送に民衆の間に広がり、反乱は首都建康をも脅かす勢いになった。政府は鎮圧を北府軍に命じると、その指揮官となった劉裕は、首都の危機を救い、孫恩集団を追撃して、402年に孫恩は海に身を投じたのでいったん鎮圧された。その後も残党は盧循という者を教主として勢いを盛り返し、水軍を使って再び首都に迫った。しかし、劉裕はここでも首都の危機を救い、盧循はベトナムに逃れて、411年に死んだ。陶淵明が『桃花源記』が描いたのはこの頃のことだった。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.231-235>

寇謙之の新天師道から道教へ

 5世紀に入り、北魏寇謙之(363~448)が、五斗米道(天師道)の教義に仏教と儒教の教理や儀式を取り入れて新天師道を興し、宗教教団としての形態を整えた。このころから道教と言われるようになった。寇謙之の道教は442年に北魏の国教となって隆盛を迎えた。しかし、北魏は次ぎに仏教を保護するようになり、7世紀の唐の時代には、道教は仏教、儒教とともに国家の支持を争った。
 一方の江南地方には、五斗米道以来の民間信仰がその後も残っており、6世紀ごろには各地に天師堂が建てられるようになり、11世紀までには道士道観など、民間宗教として定着していった。
全真教と正一教 唐・宋の時代に体制的となった道教にして、華北を支配した金の時に王重陽が禅宗の要素を取り入れて改革を行い、全真教を興した。それに対して14世紀には南宋で従来の天師道系の道教が正一教と言われて民間に行われた。こうして道教は全真教系と正一教系とに分かれて勢力が二分されることとなる。
道教教団の衰退 2~3世紀の張陵・張衡・張魯の権威を継承した民間での張天師の人気はその後も長く続いた。17世紀からは朝廷との関係も薄くなり、19世にはその関係もきれてしまったが、人々の苦しみを除くと依然として信じられていた。しかし、五・四運動後は急速に衰え、天師は竜虎山を中国共産党によって逐われて上海に仮寓し、さらに第63代天師は中華人民共和国の成立直前に台北に逃げた。彼は1969年に死に、その甥の張源先が第64代天師となったが、その統制力は弱い。<窪徳忠『道教の神々』1996 講談社学術文庫 p.90-94>
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窪徳忠
『道教の神々』
1996 講談社学術文庫

川勝義雄
『魏晋南北朝』
講談社学術文庫版