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邪馬台国

『魏志倭人伝』に現れる倭人の国家。

 『魏志倭人伝』では、3世紀に倭人の国30あまりを従え、女王卑弥呼が治めていたという。239年に三国時代のに使いを送り、朝貢して冊封を受け、「親魏倭王」の印綬と銅鏡100枚を賜った。この邪馬台国の位置については、日本の歴史学会で古くから論争があり、九州説と大和説が対立している。

239年の意味

 邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に遣使したことは、東アジアの国際的政治環境の大きな変化のなかでの出来事であったことを理解する必要がある。遣使を行った239年の前年、238年に魏の明帝が派遣した司馬懿率いる軍隊が、遼東半島から朝鮮北部で自立していた公孫淵を倒し、魏の直接的支配が朝鮮半島に及んだことである。
 239年に至るまでの遼東半島・朝鮮半島北部の情勢は次のようなものであった。
 前1世紀、漢の武帝の時に朝鮮半島北部に楽浪郡がおかれ、漢の支配とその文化が朝鮮半島に及んだ。しかし後漢末に漢帝国の支配が弱まって各地に群雄が割拠するようになると、遼東半島には遼東太守であった公孫度(こうそんたく)が自立して勢力をはり、さらに朝鮮半島にまでその力を及ぼして楽浪郡も支配するようになった。子の公孫氏の支配はその後も続き、あたかも独立した国家の観を呈するようになり、次の公孫康は楽浪郡の南に新たに帯方郡を設置した。これら楽浪郡・帯方郡は漢民族の植民地として設けられたものであった。帯方郡の範囲は現在のソウル付近にまで及んだ。
 公孫康は華北で曹操が有力になるとそれに協力し、襄平侯に封じられたが、その子の公孫淵は江南の呉と盛んに交易を行い、周辺の高句麗、馬韓・弁韓・辰韓の三韓諸国、さらには海を隔てた倭国とも取引を行った。この東アジア諸国はこの公孫氏との接触により、漢文化を接触したのだった。とくに倭国は帯方郡への遣使をたびたび行っている。
 こうして遼東を本拠とした公孫氏の勢力範囲が渤海湾から黄海沿岸に延び、さらに呉との結びつきを強めることは、魏にとっては大きな脅威となる。そこで魏は、蜀の諸葛孔明との戦いで勇名を馳せた司馬懿に命じ、公孫淵の討伐を図ったのだった。司馬懿は諸葛孔明の死後、蜀の力がよわまったことを受けて、今度は一気に方向を東に転じ、遼東に遠征、238年に公孫淵を降伏させた。これによって魏の勢力が直接朝鮮半島に及ぶことになった。
 卑弥呼が魏に遣使したのはこのような時であった。倭人の諸国のなかで主導権を握った邪馬台国は、東アジアに公孫氏に代わって登場した魏と結ぶことによって、権威を高めることをねらったのであろう。邪馬台国の使節は直接に魏の都洛陽に赴くことができた。また魏の側では、朝鮮半島北部で敵対する高句麗、中国南部の強敵である呉を牽制する意味から、この遠来の使節を優遇し、卑弥呼に親魏倭王の称号と金印を与えたのであった。
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書籍案内

渡邉義浩
『魏志倭人伝の謎を解く―
三国志から見る邪馬台国』
2012 中公新書