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ルブルック

13世紀、フランス王ルイ9世の時、モンゴルに旅行した修道士。

 1253~55年、モンゴルに赴いたフランシスコ会修道士(ルブルクのギヨーム)。フランス王のルイ9世はイスラーム勢力に向けて十字軍を派遣するにあたり、その背後のモンゴル帝国との提携を図ろうとした。ルイ9世はモンゴル皇帝がキリスト教に改宗したという情報をもとに、1249年ロンジュモーのアンドルーという宣教師を派遣した。しかし、アンドルーが到着した時はちょうどグュク=ハンが死去して後継争いの最中で、接見した摂政の皇后オグル=ガイミッシュは貢物を持ってこなければ懲罰するという態度であった。そのルイ9世はその報告を聴き、自分自身の1251年の十字軍に失敗してカイロで捕虜となってしまうなど、失意のうちにあったので、モンゴル遣使はあきらめていた。修道士ルブルックの申し出は自発的なものであって、ルイ9世が派遣したものではなかった。
 ルブルックは正式な使節の地位を認められず、一介の伝道者としての旅であったので、プラノ=カルピニに比べて困難な旅であった。彼はカラコルムにいたって第4代のモンケ=ハンに面会した。帰国後、ルブルックも詳細な報告書をルイ9世に提出したが、プラノ=カルピニの報告書と違って情報は豊富であり、正確だった。その旅行記によれば、ルブルックはモンケ=ハンの前で、ネストリウス派キリスト教の教士と宗教論議をしたという。しかし、一私人の記録とされたためか、ほとんど世に知られることはなかった。<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.202 及び同氏『大モンゴル2』「ヨーロッパに対するモンゴルの衝撃」 NHK 角川書店>

ルブルックの旅行記

(引用)ギョム・ド・リュブリュキ(ギヨーム=ド=ルブルック)の旅行記も不遇な取扱いをうけた。それは、イギリスのロジャー・ベーコンの『大著作』Opus majus 1264 に一部が取り入れられて残った。ベーコンは、当時としてはひじょうにすぐれた自然哲学者であり、イスラム世界の学問に深い関心を持っていたばかりでなく、諸民族、諸文化に積極的な興味を寄せていたから、わざわざリュブリュキに会ってその話を聞き、貴重な資料として彼の記録の価値を認めたわけだが、その書はヴァンサンのそれとちがって中世の流行書にはならず、19世紀までは、ほんのわずかのラテン語原典を読める人以外の眼には触れることがなくて、ほとんど忘却の淵にうずもれたと言ってよい。<増田義郎『新世界のユートピア』1971 中公文庫版 p.33>