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サード朝

16世紀モロッコの王朝で、ポルトガルの侵入を撃退し、サハラ以南の西アフリカに進出した。

 マグリブ地方の中でモロッコだけはオスマン帝国の征服が及ばなかったが、15世紀以降は大航海時代に入ったポルトガルが新たな侵略者として現れた。ポルトガルは1415年にセウタを占領して以来、1471年にはタンジールなどを占領しさらに南下した。それに対して当時のワッタース朝(1471~1550年)は諸部族や宗派間の対立のために無力であった。そのようなとき、モロッコ南部のドラ地方のシャリーフ(ムハンマドの家系であるとして崇拝あれていた名家)であったサード家のムハンマド=カーイムが1511年にアガディールのポルトガル人に対するジハード(聖戦)を開始、サード朝(サーディ朝とも表記)を興した。サード朝はマラケシュを征服し、41年にはアガディールを奪取、ポルトガルのモロッコ支配を挫折させた。16世紀後半にはモロッコ北部への進出を開始、フェスを占領、1550年にワッタース朝を滅ぼした。
 1578年には、ポルトガルのセバスチャン国王がモロッコに遠征、アルカセル・キビールの戦いでモロッコ軍に大敗し、それを契機としてスペインによるポルトガル併合が行われた。

マンスール王のソンガイ王国征服

 1578年のポルトガルとの戦いに勝利してモロッコのザード朝の王位に就いたマンスール(勝利者の意味)王は、1583年にトゥワット、1585年に岩塩産地のテガザを征服すると、1590年、1万のラクダを引き連れた総勢5000の兵をサハラの南、ニジェール川上流域で繁栄していたソンガイ王国に送り込んだ。指揮していたのは元キリスト教徒のスペイン人宦官、兵も1000人が、1492年グラナダのイスラーム王朝ナスル朝の陥落以後スペインからモロッコに逃げてきたムスリムのアンダルシア人、もう1000人が元キリスト教徒背教者であった。モロッコのソンガイ征服には、スペインにおけるイスラーム国家の滅亡によりモロッコに流れ込んでいた多数のスペイン出身者の不満を抑え、彼らを有効利用しようとする意図も明らかであった。これらスペイン出身の2000の兵はすべて鉄砲隊に組織され、10門の迫撃砲も所持していた。ソンガイ征服の成功により、モロッコには毎年1トンもの莫大な黄金が流れ込み、マンスール王はさらに『黄金に輝く』という異名をもつけて呼ばれるようになった。<宮本・松田編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.198-199 など>
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書籍案内

宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史』
講談社現代新書 1997