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スペインのポルトガルの併合

1580年、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し併合した。スペインはポルトガル植民地も併せ「太陽の沈まぬ国」となる。1640年にポルトガルは独立を回復するが、衰退が進んだ。

イベリア半島西南部をしめるポルトガルとその他の大半を占めるスペインの両国は、大航海時代を通じて交易圏の拡大を競ってきた。16世紀の後半に入ると、ポルトガルの衰退が始まり、スペインがその併合を狙うようになり、ポルトガル王朝の断絶を契機に1580年にスペインのフェリペ2世が軍隊を派遣、ポルトガル王位を継承して併合した。これによってスペインはイベリア半島全域を支配し、しかもポルトガルの海外領土も手に入れたので、その領土は全世界に及び、まさに「太陽の沈まぬ国」となった。
 しかし、このときスペインと同じようにポルトガルにおいてもユダヤ教徒追放令を出した。ユダヤ人は新教徒が独立運動を展開していたネーデルラントアムステルダムに移住した。かれらはダイヤモンド加工なのの職人であったので、これを機にアムステルダムの商工業が発展することとなった。またスペインは独立運動を妨害するために、オランダ船のリスボンへの寄港を禁止したが、そのためかえってアムステルダムのオランダ商人が独自で海外に進出していく契機となった。オランダは1602年には東インド会社、1621年に西インド会社を設立してポルトガル領で盛んに略奪を行い、ポルトガル商人を駆逐していった。
 このスペインのポルトガル併合は 1640年にポルトガルが反乱を起こして独立を回復するまで約60年間続く。 → ポルトガルの独立

フェリペ2世の野心

 16世紀後半にはいるとポルトガルの富は、西ヨーロッパに流出し、国力は衰退が始まっていた。スペインカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)はフランスとの抗争、宗教改革、オスマン帝国のウィーン包囲などに直面し、財政は困窮していた。次のフェリペ2世(スペイン=ハプスブルク家)もオランダ独立戦争が始まり、国力の回復の必要に迫られていた。そこでフェリペ2世はポルトガル王となったセバスチャンの母がスペイン王家出身であることを足がかりに、ポルトガルの併合を策した。

モロッコ遠征の失敗

 ポルトガルのアヴィス朝は1557年にジョアン3世が没し、セバスチャンが王位を継承したが幼少であったため前王の王妃カタリーナが摂政となった。王妃はスペイン王カルロス1世の妹であったことから、スペインの影響力が強まった。68年、セバスチャンは親政を開始するが、イエズス会の強い影響のもとで育った王は政治に関心を示さず、時代錯誤的な十字軍派遣の妄想にとりつかれ、北アフリカ征服を夢見ていた。1578年、北アフリカのモロッコでトルコ軍の支援をえた叔父のムレイ・アブデルマルクによって王位を剥奪されたムレイ・ムハマッドがポルトガル王に援助を求めてきた。24歳のポルトガル王セバスティアンは7月14日、6000人の外国人傭兵を含む1万7000の大軍を率いて出陣、8月4日のアルカセル・キビールの戦いで対戦したが、稚拙な戦法が禍して敗れ、戦死してしまった。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.116>
※ポルトガルがスペインに併合される要因の一つがモロッコとの戦いに敗れたことであることに注意しておこう。なおこの頃のモロッコはサード朝が勃興した時期である。

フェリペ2世の王位継承

 王位は叔父のエンリケが継いだが、これも老人で1年足らずで死亡し、ここにポルトガル王室のアヴィス朝が断絶した。1580年にフェリペ2世は王位継承権を主張してポルトガルに乗り込み、1581年、コルテス(身分制議会)で即位を認めさせ、ポルトガル王フェリペ1世となった。一部の反対は民衆が蜂起し、王族の一人を擁立して戦ったが、簡単に破られ、それ以外の組織的な抵抗はなかった。フェリペ2世は、ポルトガルに一定の自治権を与える一方、国境関税やポルトガル王室の財政負担が無くなったことは商人層をよろこばせた。こうしてスペインのフェリペ2世はポルトガルの本土と海外領土を合わせ、まさに「太陽の沈まぬ帝国」となった。以後、ポルトガルではフェリペ2世・3世と続き、フェリペ王朝という場合もある。
 しかし、この間、オランダは実質的な独立を達成し、またイギリスもエリザベス女王のもとで海外発展をとげ、その大帝国の維持は次第に困難になっていった。旧ポルトガルの海外領土も、ホルムズ、セイロン島、マラッカ、モルッカなどが次々とオランダに奪われていく。 → スペインの衰退
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8章4節 ウ.スペインの全盛期