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アラリック

西ゴート人の王。410年にローマを略奪。ローマにはとどまらず半島を南下ししアフリカに渡ることを目指したが失敗した。

西ゴート人の王

 ゲルマン人の諸国の一つ、西ゴート人の王。ドナウ河口付近に生まれ、4世紀末にマケドニア・ギリシアに南下して略奪し、ローマ帝国を悩ませた。ローマの将軍スティリコとの戦いには敗れ、ギリシア北方のエペイロスに退いた。398年、東ローマ帝国と講和し、イリクム(アドリア海東岸)の支配権を認めさせた。402年には北イタリアに進出し、西ローマ帝国の将軍スティリコと戦った。スティリコは、ゴート軍を利用しようとして、西ローマ帝国の軍司令官に迎え、巨額の賠償金を与えて同盟関係を結んだ。しかし西ローマ宮廷にはゴートや他のゲルマン人を排除する動きが生じ、スティリコは反逆者として処刑されてしまったため、アラリックはローマ攻撃を決意した。西ローマ配下のゲルマン人兵士も多くはアラリックの指揮下に入った。アラリック率いるゴート軍は410年にはローマを攻略して破壊した。アラリックは北アフリカに新しい国家を築こうとイタリア半島を南下したが、艦隊が難破して失敗、北に戻る途中、その年のうちに没した。 → 西ローマ帝国の滅亡

アラリック、ローマをめざす

(引用)アラリックは大胆で急速な進軍でアルプスを越えポー河を渡り、アクィレイア、アルティヌム、コンコルディア、クレモナ等の諸都市を急遽略奪、これらの都市は彼の軍門に降った。さらに3万の補助軍を加えることで兵力を増強、無人の野に一人の敵に逢うこともなく、西帝国皇帝の難攻不落の居城(ラヴェンナのこと)を守る沼地のほとりまで進出した。しかしこの慎重なゴート族指導者は、成功の望みのないラヴェンナ包囲には手を付けず、リミニまで軍を進めて、破壊の手をアドリア海沿岸に拡げた上、古の「世界の女王」(ローマ市)の征服を考えた。……アラリックは、自分の天分、自分の運勢が、どんな困難な冒険にも堪えられると感じており、彼からゴート全員に伝わった熱意は、各民族がローマという名に威圧されて持っていたほとんど迷信的な敬意を、知らず識らずのうちに解消させた。……<ギボン/朱牟田夏雄訳『ローマ帝国衰亡史』5 ちくま学芸文庫 p.14-15>

アラリックのローマ占領

(引用)410年8月24日にローマ市になだれ込んだアラリック率いるゴート族中心の軍隊は、飢餓状態でかつ伝染病がはびこりすでに地獄絵のごとき状況だった永遠の都を占領し、三日間、殺戮・略奪をはたらいた。次いでイタリア半島を南下、アラリックの死後も移動を続け、こんどはガリアに転じた。さらにイベリア半島にまで達した彼らは、ヴァンダル族の一派やアラニ人を攻撃するが、418年にはガリアに定住地を得る。ゴート族はローマの同盟部族として、西ローマ皇帝政府から南西ガリアに土地を割り当てられたことになっているが、事実上の独立勢力で、皇帝政治は何らその統治に関わることはなかった。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.199>
 また異教徒ゲルマン人のローマ侵攻は、当時すでにローマ帝国の国教となっていたローマ=カトリック教会に大きな衝撃を与えた。当時、北アフリカのカルタゴ近郊のヒッポの司教であったアウグスティヌスは、キリスト教本来の信仰を忘れたことに対する神の怒りの顕れであると捉え、413年から『神の国』の執筆を開始し、426年に完成させた。そのころ北アフリカにはヴァンダル人が侵攻していた。
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