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神の国

4世紀、西ローマ帝国の衰退する中、教父アウグスティヌスがキリスト教信仰のあり方を論じた書物。426年に完成。教会を現世の国家に対する「神の国」と位置づけ、理論付けた。

 キリスト教は、ローマ帝国の国教とされ、その保護のもと、たびたび公会議を開催して異端を排除し、三位一体説を正統な信仰として固め教会を組織していった。しかし、コンスタンティノープル教会(東方教会)と、ローマ=カトリック教会(西方教会)の対立が次第に深刻化し、異端も次々と現れてきて、けして確固たる基盤ができたわけではなかった。そのような中、西ローマ帝国はキリスト教徒ではなく、またキリスト教の異端に改宗したゲルマン人に侵攻されて弱体化が明確になっていった。それはキリスト教教会にとって、従来にない危機であった。そのようなときに登場したのが、カルタゴに近いヒッポの司教を務めていたアウグスティヌスであった。
 アウグスティヌスは、自己のマニ教などの異教への入信などの過去の過ちを自ら吐露した『告白』などで、内面から正しい信仰のあり方を追求し、三位一体説の理念を確固たる原理として打ち立てることを提唱していた。これらの著述によって、アウグスティヌスは初期キリスト教における聖書に次ぐ重要な著作をした人として、教父の一人に加えられている。

「神の国」執筆の背景

 『神の国』は、ゲルマン人の侵攻というキリスト教会にとっての危機にあって、異教徒と対峙してキリスト教教団を守るための「護教の書」であった。410年、アラリックに率いられた西ゴート人がローマに侵攻し、それによってローマが占領・破壊されたことをキリスト教徒に対する神の報復であると異教徒が宣伝したこともあって、教会はその存立が危うくなった。それに対してアウグスティヌスは413年に『神の国』の著作に着手し、426年に完成し、キリスト教の教会はこの世における「神の国」を実現させるものであり、世俗的な国家のように滅亡することはないことを歴史理論的に明らかにしようとした。その後も民族移動の大きな波は収まらず、カルタゴの地もヴァンダル人が侵入、アウグスティヌスが司教を務めていたヒッポも外敵に取り囲まれた中で、430年に死去した。さらに476年に西ローマ帝国は滅亡することとなったが、『神の国』で示したアウグスティヌスのキリスト教世界観は消滅することなく存続し、ゲルマン民族にも浸透していくこととなった。

『神の国』とは

 アウグスティヌスが神の国で論じたことは、絶対の創造主である「父なる神」・現世に現れた「神の子イエス」・父なる神と子なるイエスから出た「聖霊」を三位一体と捉え、それへの信仰によって結びついた信者は「教会」という「神の国」で永遠の安らぎを得られるということである。それによって、ローマ帝国という「現世の国」がなくなっても、信者には「神の国」という拠り所があると説き、それがローマ教皇を頂点とした教会の存在であると教えた。
「神の国」の意義とその変質  この理念によってキリスト教はローマ帝国の国教としての宗教という枠を越え、真の普遍的な世界宗教へと脱皮し、国家権力に依存しない精神世界にその国の基礎を置いたのだった。この理念の転換が、西ローマ帝国が滅亡したにもかかわらず、その国教であったキリスト教は滅びず、ゲルマン人の諸国家でも生きながらえることのできた最大の理由と考えられる。
 しかし、「神の国」としてのローマ=カトリック教会は、次第にアウグスティヌスの想定した「精神世界の国」の範疇を超え、あるいは変質させ、それ自体が現世の国家に対抗する、あるいはそれと同質の、政治権力を持ち、教会財産という経済力を持つ、「現世の国」となっていく。11世紀の、壮大なバチカンの宮殿に住み、豪華な衣装に身を包み、儀礼の中の最高権威として存在し、神聖ローマ帝国皇帝や各国国王を破門し、異教徒には十字軍を差し向けたローマ教皇の姿は、イエスとアウグスティヌスが想定した宗教指導者の姿としては誤っていたとしか思えない。それが宗教改革が起こった理由であり、ルターやカルバンにとってアウグスティヌスは一つの拠り所となった。
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ノートの参照
1章3節 ク.迫害から国教化へ