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モスクワ大公国

1283年、モスクワに成立した国家。次第にモンゴル人の支配から脱し、1480年にタタールのくびきを終わらせる。

ロシア国家のキエフ公国がモンゴルに滅ぼされてから、ルーシはいくつかの地方政権にわかれ、それぞれキプチャク=ハン国に貢納してその間接的支配を受けることとなった。いくつかある地方政権の中で、次第に有力となったのがモスクワ公国であった。1283年、アレクサンドル=ネフスキーの子ダニールがモスクワ公となってモスクワを本拠にして次第に領土を拡大させていった。キプチャク=ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、14世紀前半のイヴァン1世の時から、モスクワ大公国と言われるようになった。1380年、モスクワ大公ドミトリーはドン川のクリコヴォの戦いでキプチャク=ハン軍と戦って勝ち、ドミトリー=ドンスコイといわれ、独立の道を歩み始めた。

キプチャク=ハン国からの自立

 その後、モスクワ大公国はロシアのいくつかの公国を併合し、イヴァン3世の時にはノヴゴロドなどを併合してロシアの統一を進めた。1480年、キプチャク=ハン国への貢納を拒否したイヴァン3世は、ハン軍を戦わずして退却させて「タタールのくびき」からのロシアを解放を実現した。またイヴァン3世は滅亡したビザンツ帝国の皇帝の姪と結婚して、その国章である「双頭の鷲」を受けつぎ、後継国家としての権威を得た。これによって都のモスクワは「第三のローマ」と言われることになる。次のヴァシーリー3世は、プスコフ、スモレンスク、リャザンなどの公国を併合、ほぼロシア国家の統一を達成し、周辺のカザン=ハン国、クリミア=ハン国、リトアニア、ポーランドなどの周辺諸国に対抗できる国力をつけた。
 しかし、その戦力である騎士に与える封土が不足し、修道院の領地を没収しようとしたが、それは修道院の土地領有を否定する清廉派とそれを擁護する保守派の宗教的対立を生み、実行できなかった。また、イヴァン3世の法令で農奴制が強化され、農民への拘束を嫌って南部に逃れる農民が多くなり、彼らはコサックとなって一定の力を持つようになっていった。

イヴァン雷帝の上からの改革

 イヴァン4世は1547年に正式にツァーリとして戴冠式を行った。イヴァン4世は親衛隊を組織し、残虐な手法による大貴族層の抑圧して恐怖政治を行い、雷帝(グローズヌイ)と言われた。さらに農奴制を強化して増税を強行し、軍事力を強めてカザン=ハン国アストラハン=ハン国などの征服を成功させた。ポーランド・スェーデンという西方からの圧力に対して、バルト海への進出を目指したが、その戦争は得るもの無く終わった。ただその晩年にイェルマークによるシベリア遠征が行われ、ロシア商人が毛皮などを求めて東方進出の発端となった。

雷帝死後の動乱時代 1584~1613年

 1584年に死去すると、次男ヒョードルが継承(長男イヴァンは父に殴り殺された)したが、統治能力が無く、実権はその妃の兄のボリス=ゴドゥノフが握った。さらにヒョードルが死んで後継者がなかったためリューリク朝は断絶し、貴族会議でボリス=ゴドゥノフが皇帝(ツァーリ)に選出された。彼は対外戦争を終わらせる一方、外国貿易を盛んにしたり、大学を設置したり、近代化政策を採って評価される面もあるが、ヒョードルの子ドミトリーを暗殺した疑いが強く(おそらく真実)、人気はなかった。そのためその死は、死んだはずのドミトリーを名乗る人物が次々と現れ(偽ドミトリー)、皇帝を称するなど混乱が続き、動乱状態となった。それにつけ込んだポーランドが一部のロシア貴族と結んでモスクワを占領すると、民族派の貴族が団結してモスクワをポーランド軍から奪還し、全国会議を召集して新しい皇帝に、ボリス=ゴドゥノフによって追放されていた貴族ロマノフ家の後継ぎの16歳のミハエル=ロマノフを選出し、動乱時代を終わらせた。1613年、ミハイルが即位し、ロマノフ朝が始まった。日本でいえば織田信長の死から豊臣秀吉を経て徳川家康が江戸幕府を樹立した時代に当たる。
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ノートの参照
第6章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
書籍案内

和田春樹『ロシア・ソ連』
地域からの世界史11
1993 朝日新聞社