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ツァーリ

モスクワ大公イヴァン3世から用いられたロシア皇帝の称号。

 ロシアの歴代のロシア皇帝の地位を表す公式名称。モスクワ大公国の15世紀後半のイヴァン3世の時から使用され、次の16世紀のイヴァン4世が初めて全ロシアの支配者の意味でツァーリといわれた。ローマ帝国のカエサルに由来し、→チェーザリ→ツァーリとロシア語に転化した。なおドイツ語では「カイザー」という。ツァーリはロシア皇帝の称号としてその後も使用され、特に、18世紀のピョートル大帝以降の皇帝による専制支配体制をツァーリズムという。

イヴァン4世が正式に称号とする

 モスクワ大公としてはイヴァン3世が初めてツァーリを称したが、ロシア皇帝の意味で正式に使ったのはその孫のイヴァン4世(雷帝)が1547年からである。その後、ロマノフ朝の皇帝の称号として引き継がれた。

「帰りくる救い主ツァーリ」

 ロシア史においては、民衆思想の中にツァーリに対する信仰ともいえる観念があることが注目される。
(引用)一七世紀以来、ロシアの民衆思想の中には、「帰りくる救い主ツァーリ」という観念が存在し、大規模な民衆運動ではかならず、この観念が重要な役割を果たしてきた。この観念とは、ほぼ次のようなものである。ツァーリないしは皇太子は民に自由と幸福を与えようとしていたが、悪しき人々に殺害、幽閉されようとし、奇蹟的に脱出し、その後身をかくし、あるいは国内を流浪している。このツァーリは使いに宣言、勅書をもたせて、各地へ派遣している。統治しているツァーリはこれに迫害を加えている。しかし、いつかはこのツァーリが帰ってくる。そのときはその人を見分けるしるしがある。人々がそのツァーリを見分け、その人に従えば、自由と幸福がえられる。<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.99 以下もその要約>
 その観念による最後の大民衆運動が18世紀後半のプガチョフの反乱(農民戦争)であり、このときはプガチョフはピョートル3世であると名乗った。19世紀に入りクリミア戦争から農奴解放の実施期にも農民反乱が起き、そこでも「帰りくる救い主ツァーリ」の観念が重要な役割をたしている。やがてその観念は、現実に統治しているツァーリへの期待に転換していく。1861年のカザン県で起こった農民反乱の首謀者アントン=ペトロフはツァーリが真の自由を与えてくださったと述べ、偽りの司祭や官吏を信じるな、と説いた。1870年代のナロードニキ運動の中にもツァーリの勅書が出回り、貴族(領主)の財産を奪うことが正当化された。
 このロシア民衆思想の伝統にある「帰りくる救い主ツァーリ」の観念をふまえ、労働者の窮状をニコライ2世へ直接請願し、救済してもらおうとしたのがガポンであった。ガポンは、労働者の権利の保護を社会主義の観念と階級闘争によって得ようとしたのではなく、このロシアの民衆思想の伝統と結びつけて、ツァーリ政府や当局から公認された運動と組織をつうじて得ようとしたのだった。しかし、1905年1月、当局はガポンに率いられた労働者の自主的、平和的な請願の中に、危険な反体制へのうねりを感じ取り、過剰に反応した結果が無差別な発砲による血の日曜日事件だった。そしてこの事件をきっかけとして民衆のツァーリへの信仰や期待は霧散してしまった。 → 第1次ロシア革命
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第6章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立