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モスクワ(1)

モスクワ大公国の都として発足。第三のローマといわれる。

モスクワは13世紀末まではロシアの辺境の町に過ぎなかったが、1283年、アレクサンドル=ネフスキーの子ダニールがモスクワ公となってここを本拠に領土を拡大させ、モスクワ大公国の都となってから発展した。モスクワ発展の背景は、この地がオカ川、ヴォルガ川、ドニエプル川などの大河川に近い交通の要衝であり、キプチャク=ハン国の都サライから離れていてその干渉を受けにくかったことにあると考えられる。また14世紀にはロシア教会の主教座がキエフからモスクワに移され、モスクワが経済・文化の中心となっていった。1472年にモスクワ大公イヴァン3世がビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚したことで、ローマ帝国を継承したことになり、モスクワはコンスタンチノーブルに次ぐ「第三のローマ」ということになった。さらに1589年、ギリシア正教会の総主教座をコンスタンティノープルからモスクワに移し、モスクワは政治・宗教の両面でロシアの中心都市となった。
ロマノフ朝でも首都とされたが、ピョートル1世の時の1712年に新都ペテルブルクが建設されたため、首都でなくなった。

モスクワ(2)

1918年からソ連邦の首都となる。コミンテルン本部も置かれる。

 ロマノフ朝の首都は、ピョートル大帝の1712年にペテルブルクに遷ったため、モスクワはギリシア正教の中心という宗教都市としての地位は維持したが、政治的には後退したがロシアの中心に位置する重要な都市としての存在は続いた。1812年にはナポレオン軍のロシア遠征の際には、ロシア軍はモスクワに火を放って後退し、入城したフランス軍は焼け跡を占領することになった。食糧を補給できなかったナポレオン軍はロシア軍の反撃を受け、大敗北を喫した。
 第1次ロシア革命の「血の日曜日」、第2次ロシア革命の冬宮デモはいずれもペテルブルクを舞台としていたが、レーニンの指導するボリシェヴィキ独裁(プロレタリア独裁)体制が成立した後、1918年3月に、ソヴィエト革命政府は機能をモスクワに移し、首都に復帰させた。直前に「ロシア共産党」と改称したボリシェヴィキ主流派のレーニン、トロツキーなどの権力強化の一環であり、移転反対の動きもあったが強行された。18年7月にはロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国が成立しモスクワは正式にその首都となった。またコミンテルンの本部もここに置かれた。1922年12月30日にロシアとウクライナ・ベロルシア・ザカフカースの四共和国がソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)を結成すると、モスクワはその首都となった。
 第二次世界大戦では、独ソ戦開始後、1945年にドイツ軍が迫ったが、ソ連軍は首都防衛に成功した。1980年にはモスクワ・オリンピックが開催されたが、前年のソ連軍のアフガニスタン侵攻を避難した西側諸国がボイコットした。1991年8月には保守派クーデタが起こったが失敗に終わり、それを機に一挙にソヴィエト連邦が解体し、モスクワはロシア共和国及びロシア連邦の首都となった。