シチリアの晩祷/シチリアの晩鐘
1282年、シチリアの島民がフランス人支配に反発して起こした反乱事件。パレルモを中心に反乱が広がったがスペインのアラゴン王の介入で終わった。
イタリアのシチリア島で1282年、フランスのアンジュー家のシャルルの支配に対して起こった反乱。1282年の3月30日、復活祭の月曜日の夕方でにぎわうシチリア島のパレルモで、アンジュー家のシャルルの家来たちが女性にちょっかいを出し、いざこざが起こった。激怒した住民は「フランス人に死を!」の叫びをあげて襲いかかった。ちょうどそのとき、タベのミサの鐘が鳴りはじめた。鐘の響きに送られるかのように、暴動は瞬く間に島全体に広がり、多くのフランス兵が虐殺された。これを「シチリアの晩祷」(またはシチリアの晩鐘、シシリアン・ヴェスパー)という。
スペインのアラゴン王が介入
背景には、フランス人の支配に対するシチリア島民の反撥、また当時、シャルルがローマ教皇と結んで、ラテン帝国(1261年に倒されていた)復興のための十字軍と称してコンスタンティノープル遠征を行おうとして島民に課税をしたことへの反発もあった。メッシナに集結していたシャルルの艦隊も破壊された。シャルルも反撃に出て、態勢を立て直すかにみえたが、8月末にアラゴン王ペドロ3世の艦隊が到着し、シャルルの軍を撃破した。アラゴン王はシャルルに追われた前シチリア王マンフレートの女婿であったので、シチリア島民に乞われて来援したのである。その後も両者の争い続き、ようやく1302年、アラゴン王がシチリア王を兼ね、アンジュー家はナポリ王国を支配することで和議が成立、両シチリア王国は分離することとなった。「シチリアの晩祷」事件は、イタリア人のフランス人に対する反発と、そのナショナリズムを高揚させた事件として、その後も文学や音楽に取り上げられている。「シチリアの晩鐘」事件の黒幕
パレルモのシチリア島民に反フランス暴動をけしかけたのは、ビザンツ帝国パライオロゴス朝皇帝のミカエル8世だったという。ミカエルは「最も狡猾なギリシア人」といわれた男で、あの第4回十字軍でコンスタンティノープルを追われたビザンツ帝国の亡命政権ニケーア帝国の摂政から共同皇帝となり、1261年にラテン帝国を倒してコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国を再建したことをおのれの功績として11歳の共同皇帝を追放し、単独皇帝にのし上がっていた。彼にとって、アンジュー伯シャルルが計画するラテン帝国復興のための十字軍派遣は何としても潰さなければならなかった。その男がシチリア島民をけしかけて起こったのが晩鐘事件であるという。またミカエル8世はアラゴン王ペドロ3世のシチリア遠征艦隊の費用も提供したという。13世紀の地中海でも国際的な陰謀が渦巻いていたのでしょうか。<井上浩一『ビザンツとスラブ』1998 世界の歴史11 中央公論新社 p.191-194>