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コンスタンティノープル

最初はギリシア人の植民市ビザンティオンとして始まり、330年、ローマ帝国の新たな首都とされ、その後のビザンツ帝国の首都、ギリシア正教の中心地、東西の交易の要地として栄えた。1453年にオスマン帝国に征服されイスタンブルに改称、現在に至っている。

 ギリシア人が建設した植民市ビザンティオン(ビザンティウム)の地に、330年、コンスタンティヌス帝が「第二のローマ」(または新ローマ)として遷都した。帝の名前を冠してコンスタンティノープル(ラテン語ではコンスタンティノポリス)と言われるようになる。その地は黒海とマルマラ海(さらにエーゲ海を経て地中海につながる)をむすぶボスフォラス海峡に面し、帝国の西半分の中心にふさわしい交通の要所であった。

第二のローマ

 東ローマ帝国(7世紀以降はビザンツ帝国と言われるようになる)の都として続き、ビザンツ文化の中心地、東西交易の中心地として繁栄した。
 6世紀のユスティニアヌス帝は帝国の勢力圏を一時地中海全域に広げ、ローマ帝国の再建を目指しローマ法大全を制定、その帝都コンスタンティノープルにはハギア=ソフィア聖堂を建設し、全盛期を現出した。その後、聖像崇拝問題でローマ教会と分裂して、コンスタンティノープルはギリシア正教会(東方教会)の拠点とされるようになった。その後も、イコンモザイク壁画など、ビザンツ様式といわれる文化が展開された。

Episode 皇子たちの島

 ビザンツ帝国の歴史は、その皇帝権の継承を巡る、様々な血なまぐさい事件が続いている。それを象徴するのが、現在のイスタンブルの南、マルマラ海に浮かぶ「皇帝たちの島」である。次はある日本人女性旅行者の訪問記から。
(引用)私は船べりに立った。船は波穏やかなマルマラ海を滑るように進んでいる。振り返ると、イスタンブールの街が遠ざかっていくのが見える。前方に島影も見えてきた。
 イスタンブールからさほど遠くない沖合に浮かぶ、いくつかの島々は「皇帝たちの島(プリンシイズ・アイランズ)」と呼ばれている。ビザンティン時代、帝位継承権を持たない皇子や皇女、帝位を追われた皇帝たちが、謀反を起こす気づかいのないように、これらの島々に流されていたためである。ある者は目をつぶされてから送られたともいわれる。しかし、政権争いに敗れて命を奪われるものも多かった時代を思えば、この美しい島々の修道院に送られた大路たちは、むしろ運がよかったのかもしれない。ビザンティン帝国一千年の歴史のなかでも、敗者はいつも簡単に目玉を抉り取られ、幽閉され、虐殺されている。<参考 渋澤幸子『イスタンブール、時はゆるやかに』1997 新潮文庫 p.77>

イスラーム勢力の攻勢

 その後、7世紀以降はイスラーム教の勢力がビザンツ帝国を脅かすようになり、コンスタンティノープルもたびたび攻撃された。このイスラーム勢力の侵攻は8世紀後半からはアッバース朝が都を東方のバグダードに移し、中央アジアやインド方面ににその勢力を向けたために、一時的に弱まった。しかし、11世紀になるとトルコ系のセルジューク朝が小アジアに進出、ふたたびビザンツ帝国は大きな脅威にさらされることとなり、そのためにビザンツ皇帝は西欧キリスト教世界に対して十字軍の派遣を要請することとなる。

ラテン帝国

 十字軍運動の中では、第4回十字軍第4回十字軍の中心であったヴェネツィア商人がコンスタンティノープルの商業権を奪おうとして攻撃し、彼らが建てたラテン帝国によって一時支配されることとなる。まもなくビザンツ帝国は復興し、コンスタンティノープルもその都として復活する。

オスマン帝国の都となる

 15世紀になるとイスラームのオスマン帝国のバルカン半島への侵攻が激しくなり、1453年にメフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。この都市は以前からイスタンブルと言われていたようだが、これによってその名が新都の名称とされるようになった。
 メフメト2世はイスタンブルを新たなオスマン帝国の都として改造し、ハギア=ソフィア聖堂などもイスラーム教のモスクに造り替えらた。その後も長くオスマン帝国の都として栄え、アジアとヨーロッパを結ぶ交通の要衝、商業の中心として重要な役割を果たしてきた。オスマン帝国が倒れてからもトルコ共和国に属し、現在は首都はアンカラに譲ったが、商業の中心地となっている。
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ノートの参照
1章3節 カ.西ローマ帝国の滅亡