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ナポリ王国

南イタリアでアンジュー家の支配が続いた王国。1494年フランス王シャルル8世が遠征。その後長くスペインの支配を受ける。

1289年のシチリア島パレルモにおけるシチリアの晩祷事件後、1302年にシチリア島はスペインのアラゴン王国、ナポリ王国はフランスのアンジュー家が支配することとなり、両シチリア王国は分離することとなった。その後もナポリ王国はアンジュー家のもとで、ゲルフ(教皇党)の中心勢力となった。
 ところが、1435年にアンジュー家の家系が断絶したため、1442年にアラゴン家が王位を継承し、両シチリア王国が復活した(正確にはこの時から)。その後、イベリア半島でアラゴン王国がカスティリャ王国と合同した1479年からは、両シチリア王国もスペイン王国領となる。
 しかし翌1480年には南部のオトラントをオスマン帝国軍に1年間占領されることもあった。

フランス王シャルル8世の遠征

 1494年にはアラゴン家の王位が絶えたことから、フランスのシャルル8世が王位継承権を主張して自ら遠征してきた。これがイタリア戦争の勃発である。これに対して、ローマ教皇とスペイン王フェルナンド5世などが結束し撤退させた。1504年にはフェルナンド5世はフランス王ルイ12世と戦い、ナポリ王国を併合した。

Episode ナポリ病

 1494年のフランス王シャルル8世のナポリ遠征は、3万の軍隊で行われた。翌95年2月末にフランス軍はナポリを占領したが、フランス兵による略奪は直ちに敵意を醸成した。ローマ教皇、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、神聖ローマ皇帝、そしてシチリアを支配していたスペインのフェルディナンド5世は反フランスの同盟を結成した。さらにシャルル8世が十字軍遠征の道具立てにしようとしてローマから連れてきていた、オスマン帝国を逐われた悲劇の王子ジェムが病に倒れてしまった。やむなくシャルル8世は失意のうちにナポリ王国を放棄し帰国せざるを得なかった。莫大な戦費を費やした遠征は、政治的には何の利益ももたらさなかったが、多数のイタリアの美術品を戦利品として持ち帰った。またナポリにあったギリシア語、ヘブライ語、ラテン語などの書籍を1140冊も持ち帰った。これらが後のフランソワ1世の時代のフランスルネサンスにつながる。そして、このときフランスの兵士が持ち帰ったのが、フランス人が「ナポリ病」と呼んでいる梅毒だったという。どうやら、フランス兵の風紀は相当悪かったらしい。<『フランス史』新版世界各国史12 山川出版社 p.141>

外国支配が続くナポリ王国

 16世紀以降もナポリ王国は外国支配が続いた。つまりナポリ王国と言いながらその国王は外国の国王が兼ねており、本国から総督が派遣されて統治されると言う状態だったわけだ。1504年からのスペインによる支配は、スペイン継承戦争後の1713年にフランス・スペインとオーストリア間のラシュタット条約によってオーストリア=ハプスブルク家領に変わった。1733年にポーランド継承戦争(フランスのルイ15世が義父の前ポーランド王を復帰させようとしたが失敗した)が起こると、35年にスペイン・ブルボン朝カルロス3世がオーストリアからナポリを奪ってスペイン支配に戻し、再び「両シチリア王国」と称した。このようにイタリアの地図はイタリア人の意志とは何の関係もなく、スペイン・フランス・オーストリアの三国によって書き替えられていたのであるが、この間、イタリアの農民は最も長く南イタリアを支配したスペイン貴族によって搾取され、貧富の差の拡大と社会の停滞が続いた。1647年にはナポリの貧民が大きな暴動が起こり、パレルモにも伝播してスペインに対する全面戦争の様相を呈するまでになったが、スペイン軍によって鎮圧され、暴動は悪魔と魔女の仕業として悪魔払いの儀式が行われた。<C・ダガン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 p.108-112>

近代のナポリ王国

 1806年、ナポレオン1世の兄ジョセフが、次いで08年から14年まで部将のミュラーがナポリ王として統治した。このナポレオンの統治は一定の近代化をもたらした。しかし、ナポレオンの没落により、スペイン・ブルボン朝が復活し、1815年「両シチリア国王」フェルディナント1世と称した。その後もシチリア王国とは別個の国家であるが同一の君主をいただく王国として存続した。
 イタリア統一の気運が強まるなか、1860年にはガリバルディ軍に占領され、また北からはサルデーニャ王国ヴィットリオ=ーエマヌエーレ2世軍に攻められて降服し、61年にイタリア王国に併合される。
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第6章3節 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧