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シトー派修道会

12世紀に発展したフランスの修道会。厳しい規律の修道院生活を実施し、盛んに開墾を行い、大開墾時代をもたらした。

 キリスト教の修道士の団体である修道会の一つ。1098年、中部フランスのシトーに設立された。1106年、シトー派の修道院が公認され、さらに同会の修道院が設けられていった。ベネディクト派修道会の戒律の厳格な励行をかかげ、クリュニー修道院にかわる修道院運動の中心となる。12世紀の半ばには修道院長ベルナルドゥス(ベルナール)の指導のもとで発展し、修道士は清貧・服従・労働の生活を守った。
 シトー派修道会の修道院は、イギリスにもわたり牧羊を飼育して毛織物をつくる技術をもたらしたと言われている。また、13世紀にはドイツの東方植民とも結びつき未開地の開墾に従事し、大開墾時代をもたらした。しかし、そのころから次第に俗化し、托鉢修道会の出現によって衰退した。

修道院運動とシトー派

 クリュニー修道院は、堕落した従来の修道院に対して反旗を翻し、清貧と神への献身と厳しい自己鍛錬を信仰の柱とする修道院運動を起こしたが、時がたつにつれ、従来の目的を忘れて富を蓄え、世俗的な享楽にふける修道院が増えてきた。それに対して再び起こった修道院改革運動の中心となったのがシトー派であった。
 その創始者ロベールは、1098年、世俗的な欲望と放縦からきっぱりと決別することを目指して、ディジョン南方の荒野シトーに修道院を建立した。ベネティクト派の修道士やクリュニー派の修道士が黒衣を身にまとったのに対し、シトー派の修道士たちは白衣を身につけた。その白は、自己犠牲、清貧、福音主義を象徴した。

クリュニー修道院とシトー派修道会

 10世紀に始まり11世紀に最盛期を迎えて修道院運動の中心となっていたクリュニー修道院は、12世紀になるとベネティクト派の本来の清貧と厳格さを失って、壮大な典礼や儀式中心とするようになった。それに対する批判からシトー派修道会が興った。両者を比較した次の文が参考になる。
(引用)クリュニーの清貧は修道士の清貧ではあったが、修道院のそれではなかった。それゆえにクリュニーの繁栄は王侯のような富をもたらし,その聖堂とそのなかに営まれる生活は華麗をきわめるものとなったが、シトーでは教会の装飾としては十字架以外になく、フッサードもアプシスも取り除かれた簡素無比のシトー式の建築を生みだした。クリュニーでは日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われ(クリュニーは中世多声音楽の発展者)、一日の生活中、瞑想や作務にさかれる時間がまったく犠牲にされてしまったが、シトーではこの点こそ修道生活の重点がおかれたところで、不必要な会話をはぶくため手の会話さえ発明されたほどであった。中世イギリスの牧羊業の画期的発展が、シトー修道会の導入とともに始まることもここで想起しておかなくてはならない。<堀米庸三『正統と異端』1964 中公新書 p.154>

参考 シトー派修道士ベルナール

 シャンパーニュの貴族出身のベルナールがシトー派修道会に入会したのは1112年、22歳の時であった。3年後には13人のシトー派修道士を引き連れてシャンパーニュのクレルヴォーに修道院を建立し、徹底した清貧主義をかかげ、衣食住を極端なまで簡素化し、厳しい苦行や作業で修道士を鍛え上げた。黒衣の修道士が柔らかいベッドで体を横たえ、美食を楽しんでいることに厳しく反発し、白衣の修道士は地面の上に寝て、粗挽きの大麦と蒸したブナの葉で命をつなぎ、ひたすら神に献身する日々を送った。
 シトー派修道院は、西はイングランドからポルトガル、南はイタリア、北はスカンジナヴィアまで、ほぼヨーロッパ全土に広がり、ベルナールは当代最高の精神的権威と讃えられるようになった。ベルナールは「愛の聖者」とも、「蜜のごとく甘くやさしい賢者」とも呼ばれ、あらゆる階層の人にキリストの苦しみを説き、聖母マリアの愛を説いた。そのことばはカリスマ的な力を備え、いかなる聖職者も、世俗の権力者も諫めることが出来る存在となった。時のフランス王ルイ7世に対しても強い影響力をもち、ルイ7世が贖罪のための第2回十字軍を起こすことを思いついた際にはそれを讃え、1146年に信徒の前で十字軍派遣を呼びかけた。<ベルナールと第2回十字軍については、ルイ7世の王妃であり、後にイギリス王ヘンリ2世妃となった女性エレアノールを描いた、石井美樹子『王妃エレアノール』1994 朝日選書 p.55,135,153に詳しい。>

シトー派修道会もまた・・・

 様々な修道院、そして修道会が、イエスとその使徒たちと同じ生活にもどることをめざしが、修道院にとじこめられた「使徒的生活」は、どの修道会の場合でも、半世紀とその理想を保持しえたものはなかった。
(引用)修道会そのものの清貧は最も早くすて去られ、シトー派はたちまちクリュニーのあとを追うこととなり、1170年、法王アレクサンダー3世は、シトー修道会が初期の理想を忘却したことについて厳しく叱責しなければならなかった。これはシトー修道会がひたかくしにかくしてきたため、ようやく第二次世界大戦後(1952年)になって明らかにされた事実である。またイノセント3世はカタリ派の異端説得のため、最初シトー派説教師を用いたが、民衆の生活から遊離した彼らの説得はただ嘲笑を勝ったにすぎなかった。<堀米庸三『正統と異端』1964 中公新書 p.160>
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書籍案内

石井美樹子
『王妃エレアノール』
1997 朝日選書