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毛織物/毛織物工業

羊毛を原料として毛織物をつくる生産技術。羊毛生産、毛織物製造はヨーロッパの主要産業として中世を通じて繁栄し、羊毛貿易も盛んに行われた。機械制毛織物工業はイギリスで発展した。

 毛織物は17世紀後半に綿織物が普及するまでヨーロッパの基本となる衣類であったので、各地に毛織物業が起こった。中世においてはイギリス、スペイン産の羊毛を原料にして北イタリアとフランドル地方が二大産地であった。この原料生産地と毛織物産地との間で活発な羊毛貿易がおこなわれ、その利益を巡って、中世のイギリスとフランスの百年戦争、さらに中世末期のイギリス・オランダとスペインの対立などが展開する。イギリスは14世紀中ごろから羊毛生産から毛織物製造業に転換し、工業化への道を歩み始め、マニュファクチュア問屋制によって毛織物産業を発展させ、他を圧倒したが、18世紀の産業革命期にインドから安価な綿織物が入ってくると急速に綿工業の機械化に主力が移り、毛織物業は急速に衰えた。

スペインの羊毛生産

ベルベル人がメリノ種の羊を連れてくる スペインの羊毛産業は西ゴート王国時代にメセタといわれるイベリア半島内陸の高地で季節的に移動しながら羊を飼うことがおこなわれており、そこに12世紀後半、ムラービト朝朝時代にベルベル人がアフリカからメリノ種の羊を連れてきたことから重要な産業として発展が始まった。レコンキスタは牧羊業者によって推進された面があり、黒死病による人口減少で耕地を牧羊場とすることができたことも発展の要因である。
メスタによる移動牧畜 13世紀後半、カスティリャのアルフォンソ10世は牧羊業者にメスタという組合を結成することを認めた。このメスタつまり牧羊業者組合はスペイン国内で牧羊のために移動し、道路の使用、牧草の確保などの権利を認めてもらう代わりに国王に税を納めた。彼らは夏をメセタの高地で過ごし、秋には南下してトレド・セビリャなどで越冬し、春に北上して4月にレオン・カスティリャ地方で剪毛して、メディナ=エル=カンポなどの市場で取引された。羊毛はバルセロナから北イタリアの毛織物産地の都市へ、13世紀からは北岸のサン=セバスチァン・ビルバオなどからフランドルへ、後にはイギリスへ輸出された。
毛織物生産に向かう スペインは16世紀初めまでは羊毛などの原料輸出国であったが、大航海時代が到来してアメリカ新大陸を獲得すると、西インド諸島や新大陸で毛織物の需要が高まったので、次第に羊毛生産から毛織物製造へと軸足を変え、16世紀の中ごろには全盛期を迎えた。しかし間もなく、オランダに独立運動が始まって、独立後はアムステルダムから直接新大陸にフランドル産の毛織物が輸出されるようになり、さらにイギリス製毛織物も有力な競争相手となっていった。スペインの毛織物は零細な農民の家内制手工業によって生産されるにと止まっていたため、次第にマニュファクチュアから機械化をすすめたイギリス産に太刀打ちできなくなって、衰退していった。

フランドルの毛織物産業

 現在の北フランスからベルギーにかけてのフランドル地方は、ローマ時代から毛織物の産地として知られていた。11世紀以降、イギリスから原料の羊毛を輸入するようになり、その質と量で他を圧倒するようになった。ブリュージュガン、イープルなどのフランドルの都市は毛織物業で栄えたが、その利益を最も享受したのは毛織物をハンザ同盟都市の商人などに売っていた商人たちであって、毛織物の生産者である親方や職人たちの生活はみじめであった。毛織物の価格は商人が決め、親方は原料や道具を買う金を商人から前借りしなければならなかった。

イギリスの羊毛生産と毛織物産業

フランドルへの羊毛輸出 イギリス(イングランド)は11世紀ごろから荘園農村での羊毛生産が増えてきた。12世紀ごろからは北部や北西部(ウェールズ)からより質のよい羊毛が生産されるようになったが、いずれもドーヴァー海峡を越えてフランドル地方に輸出され、その地の毛織物産業の原料とされていた。羊毛の大陸への輸出と毛織物の輸入という遠隔地取引は商業を活発にして、羊毛の集積地に都市が形成されるようになった。当初はイギリスでは高度な毛織物の技術がなく、原料供給だけにとどまっていたが、商業資本が蓄積されると、その資本によってイギリスでも毛織物業が始まり、フランドルと競合するようになった。そのような中でフランス王の臣下の立場にあるフランドル伯がイギリス商人に圧力をかけてきたこともあって、フランドル地方を征服して毛織物業をイギリスの支配下におこうという要求が起こってきた。それが百年戦争の要因の一つとなった。その初期にカレーを占領したイギリスのエドワード3世は、1363年にカレーを輸出羊毛指定市場として商人組合に羊毛輸出の独占権を与え、関税を徴収した。<城戸毅『百年戦争』2010 刀水書房 p.272>
羊毛生産から毛織物生産に転換 このように中世イギリスにとって羊毛は最も重要な産物(ステープル)とされていた。結局フランドル地方を獲得することができなかったこともあって、次第にイギリス国内での毛織物製造業の需要が高まり、14世紀後半から15世紀にかけて、毛織物産業はイギリスの国民的産業にまで成長し、ヨークシャーなどの都市から農村のマニュファクチュア(工場制手工業)にまで広がっていった。このような国内毛織物産業の増大は、原料の羊毛の需要を高め、15世紀半ばから荘園領主は農村の共有地などを囲い込んで牧場にして羊を飼うという第1次囲い込み運動(エンクロージャ)が始まり、それは16世紀に急速に進んでトマス=モアの言う「羊が人間を食べている」といわれる状況となった。16世紀後半、テューダー朝エリザベス1世の絶対王政における重商主義政策のもとで毛織物産業が保護され、毛織物はイギリスの最も重要な産物となった。
毛織物の機械化は遅れる 17世紀の海外発展においても毛織物はイギリスの主要な商品として重要であったが、新たにインドと中国がその支配圏に入ったことはイギリス産業構造を大きく変えた。毛織物はインドの高温多湿の気候では受け容れられず、絹織物や綿織物が発達していた中国でもほとんど売れなかった。かえってインドから輸入された綿織物はイギリスの大衆に受け入れられ、毛織物の需要は減少した。この綿織物の需要増大は18世紀にイギリスに産業革命をもたらし、綿工業が勃興した。綿工業から産業革命が始まった理由には毛織物業がさまざまなギルド規制に縛られていたのに対し、新しい産業であった綿工業には規制がなかったことが挙げられている。毛織物の機械化は遅れたが、18世紀末になると毛織物でも蒸気力が利用されるようになった。また原料の羊毛は19世紀から国内産に代わり、植民地のオーストラリアから大量に輸入されて使用されるようになった。毛織物(ウール)は現在でも寒冷なヨーロッパでは欠かすことのない衣料として重要な産業となっている。
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8章4節 エ.オランダの独立とイギリスの海外進出