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アチェ王国

15世紀末、スマトラ東北西部に成立したイスラーム教国の港市国家。16世紀にインド洋交易で繁栄した。オランダ軍とのアチェ戦争で、1903年に滅亡した。

 アチェは、アチンとも表記。東南アジアのイスラーム化が進む中で、15世紀終わりごろスマトラ島の北西部に独立したイスラーム国家が生まれた。このアチェ王国は、スマトラ南西部やマレー半島にも進出し、マラッカ王国と対抗した。16世紀にはマラッカを制圧したポルトガルとも対抗し、イスラーム商人の交易ネットワークを築いて強大な勢力となった。またスマトラ島の胡椒を一手に抑え、イギリス、オランダとの交易で利益を上げていった。

オランダとの戦い

 17世紀後半からオランダ東インド会社がこの地域での交易に乗り出してきた。18世紀を通じてオランダは、現在のインドネシアの諸島に対する植民地化を進め、オランダ領東インドを形成していった。イギリスとの抗争の結果、1824年のイギリス=オランダ協定でスマトラ島はオランダ、マレー半島はイギリスの植民地とされた。それをうけてオランダはスマトラ島の抵抗勢力を排除していったが、1820~30年代のスマトラ南西部でのパドリ戦争に続いて、北部のアチェ王国の制圧に乗り出した。
 1873年~1912年のアチェ戦争は、オランダの植民地支配に対する、アチェのイスラーム勢力との戦いとなり、アチェでは聖戦(ジハード)と捉えられた。激しい戦争の結果、1903年にアチェ王国は降伏しオランダ領東インドに編入されたが、抵抗は1912年まで散発的に続いた。

アチェの独立志向

 第二次世界大戦後、スカルノなどのジャワ島を中心としたインドネシア民族主義者によるインドネシア独立戦争では、アチェの人々も協力しが、1950年にはインドネシアのきたスマトラ州に併合されたため、アチェ人の中に分離独立の要求が高まった。それは東南アジア圏最初のイスラーム教国であるアチェ王国の伝統が生きており、ヒンドゥー教と融合したジャワ中心のインドネシア共和国に対する宗教的な反発が背景にあった。そのため、1950年代から独立運動が活発となり、それはアチェ紛争といわれる「自由アチェ運動」とインドネシア国軍の激しい戦闘となって続いた。2005年には大幅な自治が認められ、現在は沈静化している。和平の契機となったのは、2004年12月26日インド洋大津波で大きな被害を受けたことであった。

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