印刷 | 通常画面に戻る |

琉球/琉球王国

現在の沖縄県であるが、15~16世紀に琉球王国を形成し、中国、日本との交易で繁栄した。しかし17世紀初め、薩摩の島津氏の武力侵攻を受け、事実上はその支配を受けた。江戸時代を通じて日本と清に両属する状態が続いた。

 古代の中国の史料には「流求」という地名が出てくるが、それは現在の台湾から沖縄を含む島々を指していたらしい。明代になって、台湾とはべつに、現在の沖縄島を琉球と言うようになり、琉球王は明の冊封を受け、明の文化を受容し、朝貢を続けた。同様の関係は、清朝でも続き、清朝は琉球に対する宗主国としての意識を持ち続けた。

琉球王国

首里城

首里城 正殿 2019/10/31焼失

 琉球(現在の沖縄)は14世紀ごろから北山、中山、南山に分かれていたが、1429年に中山王尚巴志が統一し、琉球王国となった。15~16世紀に那覇を中心に盛んに貿易活動を展開し、日本-朝鮮-中国-東南アジア諸地域を結びつける貿易ネットワークの中心に位置し、各地の産物を交易する中継貿易を行っていた。琉球商人の活動は南はジャワ島やスマトラ島アチェ王国、マレー半島のマラッカに及び、ポルトガル人とも接触した。特に中国の陶器をはこぶ商人が多かったという。「海のシルクロード」(海の道)の東の終端で琉球商人が活躍していたことは興味深い。1609年には薩摩の島津氏に軍事征服され、島津氏に服属する。<高良倉吉『琉球王国』岩波新書 1993 による> → サツマイモの伝播

島津氏の征服。日清両属となる。

 日本の江戸時代となった1609年、薩摩の大名島津家広は琉球の資源とその交易による利益に目をつけて出兵し、首里城を占領して国王尚寧を捕らえ、服属を強制した。琉球王国は、島津氏の監督の下に、将軍の代替わりごとに慶賀使を江戸に送ると共に、中国に清朝が成立すると毎年進貢船を派遣し、代わりに清の冊封使が来航した。こうして琉球王国は、日本に服属し、清国を宗主国とする、両属の国となった。

世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群

 2000年、琉球王国に関係して、沖縄本島中部を中心に国頭から島尻にかけて残されている、グスクと呼ばれる城塞建築が世界遺産に登録された。今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽の9遺産から構成されている。

NewS 首里城の火災

 2019年10月31日未明、那覇市の首里城で火災が発生、正殿、北殿、南殿など主要建物がほぼ全焼した。那覇市の首里地区にある首里城は琉球王国の宮殿として建造され、かつての王国の繁栄を伝えていたが、1945年の太平洋戦争末期の沖縄戦で焼失したものを、1992年に国の事業として再建したもの。2000年には世界遺産を構成する建物として登録された。15世紀に建造されたと考えられる城郭は昔のままであるが、建物自体は戦後に再建されたものであった。しかし、沖縄県民の歴史のシンボルとして親しまれていただけに衝撃は大きい。なお、首里城の大手門にあたる守礼門は無事だった。


用語リストへ 諸地域世界の交流7章1節

 ◀Prev  Next▶ 



琉球帰属問題

日本と清国の両属とされた琉球を巡る19世紀後半での両国の対立。1879年、日本が琉球併合を強行した。

 琉球王国は、江戸時代には形の上は独立した王国であり、事実上は島津氏を通じて日本の支配を受けながら、清朝を宗主国としてその冊封を受け、朝貢しているという、両属の形を取っていた。江戸時代にはそれが問題になることはなかったが、明治維新後、近代的な主権国家を目指す日本は、明確な領土概念を適用し、日本の支配下に組み込もうとした。それに対して清朝は宗主権を主張して、琉球を支配下に置こうとした。この帰属問題は両国間の深刻な対立点となった。

琉球処分(琉球併合)

 明治政府による廃藩置県は1871(明治4)年に行われたが、琉球に対しては翌72年に琉球王国を廃して琉球藩を置き、尚氏を藩主とした。1874年には、琉球の漁民が台湾の先住民に殺害された事件を機会に、日本は琉球は日本に属するとして台湾出兵を強行した。これは近代日本画行った最初の海外派兵であり、台湾現地人との戦闘が行われ、清朝は強く抗議したが、イギリスの調停によって両国間の開戦には至らず、同年10月、日清互換条款が締結され、事実上、琉球を領土とする日本の行動が認められることとなった。
 その後も、琉球に対する清朝の宗主権の主張は続き、琉球内部にも清朝への帰属を主張する動きもあった。そこで明治政府は1879年(明治12年)、軍隊・警察を派遣して威圧した上で、琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。これの課程は日本史上では「琉球処分」と言われているが、形式的ではあれ独立国家であった琉球を日本が併合したものであり、それによって清朝の宗主権の一つが失われたことを意味している。当時清の実権を握っていた李鴻章は、日本の台湾出兵、江華島事件、琉球処分という一連の動きは、清国を中心とする中華世界の秩序に対する挑戦として強く警戒し、琉球処分に対して、清国の駐日公使はただちに日本に抗議している。琉球帰属問題はなおも日本と清国の間で継続されることとなった。
 折から世界一周旅行の途中で来日していたアメリカ合衆国の前大統領グラント(南北戦争の北軍の英雄として戦争後に大統領に選出されたが大統領としては問題が多く、評価は低い)が、日本と清国の調停役を引き受けた。しかし両国の主張は歩み寄らず、この問題は1894年の日清戦争の一つの要因となった。そこでの日本の勝利により、事実上、琉球帰属問題は決着がついた。
 → 沖縄戦  沖縄返還
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

高倉良吉
『琉球王国』
1993 岩波新書