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内閣(中国)

明の永楽帝が置いた皇帝政治を補佐する機関。そのメンバーを内閣大学士といった。その主席は宰相と同じ権限を持つようになり、清朝でも継承され国政の中枢機関となった。近代以降はイギリスで発展した内閣制度を受容した。

明の内閣制度

 内閣という漢語は、1402年に永楽帝が設置した、皇帝の補佐役である内閣大学士が集まって協議の場となった機関の名称とされたことからはじまる。
 明では太祖の洪武帝(朱元璋)は皇帝専制体制を固め六部を皇帝直属とし、従来の中書省も廃止したので、それまでその長官が努めていた宰相の役割もなくなった。しかし、全ての案件を皇帝が決裁するシステムには無理があるので、明朝では宦官の実質的な政治介入が次第に多くなっていった。
明の内閣と宦官 洪武帝は皇帝の実務を補佐する任務として殿閣大学士を置き、その任務は世祖永楽帝の1402年に内閣大学士となったが、それは皇帝の秘書・顧問役にすぎず、権限は低いものであった。ところが、第5代の宣徳帝のとき、内閣大学士が大臣としての権限も持つようになり、特に1435年に即位した正統帝はわずか9歳であったため、内閣大学士は実質的にかつての宰相と同じ権威を持つようになった。内閣大学士は複数名が任用されるのが通例であったが、その中の主席が「首輔」と言われて特別な権限を有するようになった。内閣大学士になるためには翰林院の官職をえなければならず、翰林院に入るためには科挙の合格者=進士でなければならないという慣行が成立して、元代には衰えていた科挙が重要な官吏選抜制度として復活した。しかし、明は皇帝専制政治の原則であったため、皇帝の側近にある宦官の力も維持され、内閣と並んで宦官の機関である「司礼監」という機関も置かれており、内閣から皇帝に提出される文書は直接ではなく司礼監を通さなければならなかったので、しばしば宦官は国政に介入する機会を有し、そのためしばしば内閣と宦官は対立した。

清の内閣制度

 次の清朝でも皇帝政治を支える機関として康煕帝の時に内閣が設けられ、次第に重要な機関となっていった。しかし、清朝では雍正帝の時に軍機処が設けられて内閣は実権を失った。
 その後、近代日本や中華民国ではイギリス流の政治制度が導入されるが、その際、英語の Cabinet の訳語として復活し、現在まで用いられている。 → 内閣(イギリス)
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