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永楽帝のモンゴル遠征

明の永楽帝は数回にわたり自ら軍を率いてモンゴルに遠征、制圧した。

 モンゴル民族は元滅亡後、モンゴル高原に後退し、北元といわれる国家を作っていたが、それも洪武帝の攻撃を受け、1388年に滅亡した。その後、モンゴル人の中で東部のタタール部と西北部のオイラト部の二部族が有力となった。明で靖難の役が起きて混乱したすきにタタール部が次第に力をつけてきて明の領土を脅かすようになった。
 靖難の役を乗り切って権力を握った永楽帝は、部隊をモンゴル高原に派遣したが、タタール軍に敗れて全滅するという事態になったため、親政を決意、1410年にモンゴル高原に向けて親征(皇帝自らが軍を率いて出征)し、タタール軍を破った。この後、タタール、オイラト両部が交互に反旗を翻したのに対し、永楽帝は前後5回にわたって親征を繰り返した。永楽帝の親征はモンゴル人を高原の奥地に後退させたが、決定的な打撃を与えることはできず、1424年第5回遠征の帰途、内モンゴルの楡木川で永楽帝が病没し終了する。 → モンゴル(2)

「五たび砂漠にいで、三たび虜庭を犂(たがや)す」

(引用)皇帝が自ら兵をひきいて砂漠の彼方に出撃するということは、ながい中国史のなかでも、空前絶後の壮挙であった。もちろん、ふるく、漢の武帝や唐の太宗など、しばしば塞外(さいがい)民族を撃破したことはあるけれども、それらはいずれも、将軍に軍隊をひきいて出征させたのであって、皇帝自ら出陣したわけではない。中国人の皇帝として、砂漠をわたったのは、永楽帝ただ一人であった。しかも、中国人の皇帝として唯一の例であるばかりでなく、異民族出身の皇帝でも、中国の支配者となった後にこうした親征の軍をおこしたのは、魏の太武帝と清の聖祖康煕帝とがあるにすぎない。さらに特筆しなければならないのは、永楽帝の漠北への親征が、五度も行われたことである。この壮挙をまのあたりにながめた当時の人々が、「五たび砂漠にいで、三たび虜庭を犂(たがや)す」とたたえたのも、理由の無いことでは亡かった。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.137>
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第7章1節 イ.明初の政治