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モンゴル(1)

モンゴル高原で活動した遊牧民で、13世紀初めにチンギス=ハンがモンゴル帝国を建国。西アジア・ロシアから中央アジア、中国大陸をふくむ大帝国は、元を宗主としてキプチャク、チャガタイ、イルの三ハン国に分かれた。

モンゴル部からモンゴル民族へ

 現在では漢民族から見て北方民族の一つに含まれる、モンゴル高原(モンゴリア)で遊牧生活を送っていたアルタイ語系の騎馬遊牧民をモンゴル民族と称し、日本では蒙古と表記しているが、そのような「モンゴル民族」が成立したのは、13世紀の「モンゴル帝国」成立以降のことである。それ以前は北アジアの草原で活動する遊牧民族の一部族が「モンゴル部」と言われていたに過ぎなかった。同系列の遊牧民としては、古くは3~5世紀に活動した鮮卑(トルコ系説もあり)や柔然があげられる。唐代に蒙兀(もうこつ)として出てくる。彼らは6~9世紀には突厥ウイグルのトルコ系氏族の支配を受けていたが、10世紀には同系列の契丹(遼)が有力となった。12世紀ごろまでは多くの部族にわかれ、ケレイト部やタタール部などが有力であったが、13世紀初めに、その中のモンゴル部という小部族が有力となった。
 1206年、モンゴル部のテムジンがそれらの部族を統合して、部族長会議であるクリルタイでモンゴル高原の全遊牧部族の君主であるハン(汗)の位に推戴されてチンギス=ハンとなり、モンゴル帝国(モンゴル=ウルス)を建国した。これ以来、同系列の遊牧民やそれに同化したトルコ系民族なども「モンゴル民族」に含まれるようになった。チンギス=ハンはウイグル文字を参考にしてモンゴル文字を制定した。

注意 モンゴルは民族名ではなく国名であること

 チンギス=ハンの国家の名は、「イエケ・モンゴル・ウルス」、つまり「大モンゴル国」である。この新国家に参加したすべての構成員たちは、たとえ出身・言語・容貌が違っても、みな”モンゴル”となった。この時モンゴルとは、まだ民族の名ではなく、あくまで国家の名称に過ぎない。一枚岩の”民族集団”とするのは誤解である。大モンゴル国家は、多種族混合のハイブリット集団であり、いくつかの一族ウルスを抱える多重構造の連合体として出発したのであった。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 上 p.42-45>

モンゴル帝国のモンゴル民族

 チンギス=ハンから孫のフビライ=ハンの時期にかけて、13世紀のモンゴル帝国は急速に領土を拡大し、西アジア・ロシアから中国全体に及ぶ大帝国が形成され、モンゴル民族もその領域に拡大し支配層を形成していった。中国を支配したモンゴルは国号をとしたが、中国文化を取り入れることは少なく、征服王朝として支配した。元ではモンゴル人至上主義がとられ、西域人が色目人としてモンゴル人の次に置かれ、漢民族は漢人・南人に分けられてその下に置かれた。

モンゴル民族の宗教

 モンゴル民族は長くシャーマニズムに止まっていたが、宗教には寛大で、時代によって仏教やネストリウス派キリスト教、イスラーム教などの影響を受けた。特に中国を支配した元や、16世紀のモンゴル民族はチベット仏教を保護したことが注目できる。中央アジアのチャガタイ=ハン国、西アジアのイル=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国ではそれぞれ先住民のトルコ系民族と同化が進み、またイスラーム化した。

元滅亡後のモンゴル民族

 1368年、元の滅亡後は明によって圧迫され、その支配領域をモンゴル高原だけに限定された北元となる。モンゴル民族の国家が消滅したわけではないことに注意する。

その他のモンゴル系国家

 1370年、ティムール朝を中央アジアに建国したティムールチャガタイ=ハン国のモンゴル系部族出身であった。ティムールはチンギス=ハンの直系であると称することによって権力の正統性を得ようとした。ティムール帝国を構成していた民族は、「トルコ化したモンゴル人」ということが出来る。また1526年に北インドにムガル帝国を建国したバーブルは、ティムールの5代の孫であり、チンギス=ハンの15代の孫であると称し、はじめ中央アジアのサマルカンド付近を根拠にしていたモンゴル系の民族が建てた国家である。ムガルというのもモンゴルから来た国号である。彼らは征服王朝としてインドを支配するうちに、インド人に同化していった。

モンゴル(2)

モンゴル帝国滅亡後のモンゴルとモンゴル人。明と清に服属。

明による征服

 中国における漢民族支配を回復した洪武帝は、さらにモンゴル高原の支配を目指し1388年に北元を滅ぼした。その後、明で靖難の役の混乱が起こると、モンゴル人のタタール部とオイラト部の二部族が有力となり、再び中国の北辺を脅かすようになったので、中国の混乱を収めた永楽帝は、1410年からモンゴル遠征を開始、自ら軍を率いて、5回にわたる親征を行った。これによってモンゴル高原はほぼ明の支配下に入ったが、なおその北方に勢力を維持することとなった。

オイラトとタタール

 15世紀中頃にはモンゴル民族の一部族であるオイラト部エセン=ハンが有力となり、明を圧迫した。エセン=ハンは1449年の土木の変では明の正統帝を捕虜にしたが、北京攻略には失敗し、オイラト部は衰えた。
 ついで16世紀中頃にはタタール部ダヤン=ハンがモンゴル民族を再び統一し、次のアルタン=ハンはたびたび明の領土を侵し、明にとって北虜南倭の北虜として恐れられた。
 しかし、17世紀になるとモンゴル高原の東方の森林地帯でツングース系の女真が次第に台頭してモンゴルにも脅威を与えるようになった。

清朝のモンゴル支配

 太宗ホンタイジ以来、モンゴル方面の攻略を進め、1634年に内モンゴルのチャハル部を征服、1691年までに外モンゴルまで勢力を伸ばした。17世紀には西モンゴルにオイラト系のジュンガルが有力となり、清の康煕帝は遠征軍を送ってそれを抑えようとした。18世紀に乾隆帝の攻勢を受け、1757年に全モンゴルは清朝に征服され、その藩部の一つに組み込まれることとなった。清朝はモンゴル王侯を通して政治・経済・文化の中国化を進め、またモンゴル人を八旗に組み込んで軍事力とした。またジュンガルに圧迫されて東モンゴルに移動したハルハ部も清朝に服属し、外モンゴルから内モンゴルに広がった。

モンゴル(3)

外モンゴルは辛亥革命で中国からの分離独立し、1924年、2番目の社会主義国として人民共和国となった。

 1911年に辛亥革命で清朝が倒れると、北モンゴル(いわゆる外モンゴル)には、チベット仏教の活仏を主権者とする国家の独立を宣言した。1915年には、中華民国政府から自治権を与えられた。
 その後ロシアの影響を受けるようになり、第1次世界大戦後にロシア革命の影響を受けてモンゴル社会主義革命が起こった。

モンゴル革命

 隣接するロシアに、1917年に社会主義革命が起こり、ソヴィエト政権が成立したことはモンゴルにも大きな影響を与えた。チョイバルサンなどの社会主義者が指導するモンゴル人民革命党が成立し、1924年に「モンゴル人民共和国」が成立した。これは、ロシアに次ぐ史上2番目の社会主義国であった。しかし南モンゴル(内モンゴル)は中国領にとどまった。  モンゴル人民共和国は、アジアにおける社会主義国としてその後も続いたが、第二次世界大戦直前にはソ連軍と日本軍が衝突したノモンハン事件が起きている。その後もソ連と中国の間に挟まれてたその位置から、中ソ対立時代には苦しい時代が続いたが、ほぼソ連よりの立場を守った。1989年に始まった東欧社会主義圏の激動は、1991年のソ連解体にまで行き着いたが、モンゴルものその動きが波及し、早くも翌1992年に社会主義を放棄し、「モンゴル国」と改称した。

現代のモンゴル国とモンゴル人

 現在モンゴル人とされるのは、広い意味でモンゴル語を話す人々のことである。モンゴル人はモンゴル国だけでなく、中国の内蒙古自治区、ロシアなどにひろく居住する。モンゴル語はアルタイ語族に属し、日本語との近親性もある。

Episode モンゴル人力士の活躍

 1992年に入幕した旭鷲山(最高位小結。2006年引退)以来、モンゴル人力士が日本の大相撲で活躍するようになり、ついに朝青龍と白鵬、日馬富士、鶴竜が相次いで横綱に昇格するほど、大相撲を通じて日本とモンゴルの関係は深くなった。モンゴルには古来、モンゴル相撲という日本の相撲に似た格闘技があるからであろうか。何よりも、同じアルタイ語系民族であり、おしりの蒙古斑など、日本人との近親性があることが大きいであろう。もはやモンゴル人力士を外人力士と言うのはやめたほうがいいのではないか。なお、その開拓者であった旭鷲山は帰国後の2008年に国会議員に当選している。