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党争

朝鮮王朝(李朝)での両班の派閥抗争。勲旧派と士林派が争った。

 朝鮮王朝両班は、科挙によって特別の地位を得るので、儒学に精通し、その理念を絶対的なものとして信奉した。儒学の教えでは父、祖父、曾祖父、高祖父の4代の先祖を祀り、一族は常に団結していなければならなかった。一族の血縁関係を記した「族譜」は名門の証として尊重された。自ずと他の一族との競争心が芽生え、両班は派閥をつくって互いに争うのが常であった。特に朝鮮王朝の中期には、中央の高級官僚である勲旧(フング)派と、地方両班から官僚になった新興勢力の士林(サリム)派の対立が激しくなった。士林派が権力を握ると、こんどはその士林派が分裂して争った。争うと言っても武力でではなく、儒学の教義や礼儀のあり方をめぐっての「理論闘争」であった。しかし敗れれば処刑されたり追放されたりするので、争いは深刻で血なまぐさいものであった。このような両班間の対立抗争を党争(タンジェン)という。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.133~>

Episode ソウルの東西対立 党争の始まり

 16世紀は、朝鮮王朝の中央政治機構である司憲府・司諫院・弘文館の三司体制が確立し、官僚制にささえられた王権の安定がもたらされた。しかし、16世紀末になると、官僚制を支えた士林派の内部に、党派の対立が表面化してきた。李重煥という人の証言によると、それは些細なことから始まった。
 宣祖(在位1567~1608)の時、吏曹参議となった金孝元は盛んに人材登用を行おうとしたが、先輩格の沈義謙は孝元を嫌い、それに反対したので、若手官僚は義謙を攻撃した。義謙もかつては人材登用に努めたことがあったので、彼に登用された高齢の高位者は擁護した。こうして先輩と後輩に分かれた争いは、1583~84年頃から東人と西人といわれる二派が形成された。それは金孝元と沈義謙の家がソウルの東と西にあったからだった。<宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 中央公論新社 p.147 わかりやすように要約した>

党争の広がり

 士林派政権の誕生によって官僚権力が増大したが、今度はその地位をめぐって士林内部の分裂が生じた。しかもその争いは、勲旧派と士林派の対立であった士禍と違って、政界の中枢部だけでなく、広範な人たちをまきこむ可能性をもっていた。士林派は儒教的道徳観を公論として理念化していたので、その分裂は公論、つまり公議の分裂を引き起こすことになるからである。こうして党争は朝鮮の儒教の学派対立と結びつき、一種の思想闘争にまで深化していく。この闘争が激化した16世紀の末から17世紀の初めの朝鮮をめぐる国際情勢は大きく転換しようとしていた。豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱)があったのはまさにこの時期であった。<宮嶋博史・同上書 p.148 などによる>
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ノートの参照
7章2節 ウ.清朝と東アジア
書籍案内

岸本美緒/宮嶋博史
『明朝と李朝の時代』
世界の歴史 12
中央公論新社