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党争

朝鮮王朝(李朝)中期に長く続いた両班の派閥抗争。王権を支えた世襲官僚(両班)が保守勢力と革新勢力にわかれ、党派は分裂を重ねながら17~18世紀に抗争を続けた。この党派間の抗争を党争という。表面は儒教の理念をめぐっての論争という形を取るが、実体は王位継承をめぐる争いであることが多かった。この党争が続いたことが、朝鮮の弱体化をもたらした、ともいわれている。

 朝鮮王朝両班は、科挙によって特別の地位を得るので、儒学に精通し、その理念を絶対的なものとして信奉した。儒学の教えでは父、祖父、曾祖父、高祖父の4代の先祖を祀り、一族は常に団結していなければならなかった。一族の血縁関係を記した「族譜」は名門の証として尊重された。自ずと他の一族との競争心が芽生え、両班は派閥をつくって互いに争うのが常であった。特に15世紀ごろの朝鮮王朝の中期には、中央の高級官僚である勲旧(フング)派と、地方両班から官僚になった新興勢力の士林(サリム)派の対立が激しくなった。16世紀末に士林派が権力を握ると、こんどはその士林派が分裂して争った。争うと言っても武力でではなく、儒学の教義や礼儀のあり方をめぐっての「理論闘争」であった。しかし敗れれば処刑されたり追放されたりするので、争いは深刻で血なまぐさいものであった。このような両班間の対立抗争を党争(タンジェン)という。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.133~>
注意 「党」と「党争」 世界史学習上の用語として、次の17~18世紀の朝鮮王朝中期で続いた両班間の党派の政治的な争いを「党争」という。ただし「党」「党争」は普通名詞としてもよく使われている。中国史の中では、後漢の党錮の禁や、明の東林派など、宦官と争った官僚集団を「党」と言っている。また明の東林党と宦官の対立を「党争」とも言う。いずれも普通名詞としても用いられているが、近代西欧の政党のような議会政治上で政策によって結束する組織ではない。最近の高校世界史教科書では朝鮮王朝の「党争」に触れなくなっているが、朝鮮の歴史の理解では必要な用語なので取り上げた。

参考 世界史学習での党争

 朝鮮王朝では党争が延々と続く。その過程は複雑で長期にわたるので、以下にごく大筋だけを述べることとするが、高校の世界史学習ではその経過は省き、朝鮮王朝では中期から後期に賭けて500年以上にわたって、政治においては両班層の中で党争が繰り返されたこと、その争いは表面は儒教理念の論争であったが、本質は王位継承をめぐる有力氏族間の争いであったことを押さえておけば良いであろう。もっとも、韓国歴史ドラマが大好きな方は馴染みの深い王名が出てくるので興味深く学習できるでしょう。<以下、宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 1998 中央公論新社/糟谷憲一『朝鮮の近代』1996 世界史リブレット43 山川出版社 などにより構成。>

党争の始まり

 党争は朝鮮王朝中期の宣祖の時代、1575年に官僚たち(両班)の間に東人(改革派)と西人(保守派)の対立が起こったことに始まる、とされている。16世紀は、朝鮮王朝の中央政治機構である司憲府・司諫院・弘文館の三司体制が確立し、官僚制にささえられた王権の安定がもたらされたが、16世紀末になると、官僚制を支えた士林派の内部に、党派の対立が表面化してきた。李重煥という人の証言によると、それは些細なことから始まった。
東人と西人の分裂 宣祖(在位1567~1608)の時、吏曹参議となった金孝元は盛んに人材登用を行おうとしたが、先輩格の沈義謙は孝元を嫌い、それに反対したので、若手官僚は義謙を攻撃した。義謙もかつては人材登用に努めたことがあったので、彼に登用された高齢の高位者は擁護した。こうして先輩と後輩に分かれた争いは、1583~84年頃から金孝元ら改革派は東人、沈義謙ら保守派は西人といわれ、二派が形成された。東人・西人の名は金孝元と沈義謙の家がそれぞれソウルの東と西にあったからだった。後に東人はさらに南人・北人に分かれるが、これもソウルの南と北を意味しているので、ソウルの東西南北がそれぞれ党派にを分かれたと言うことになる。<宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 1998 中央公論新社 p.147 わかりやすように要約した。>

党争の背景

 士林派政権の誕生によって官僚権力が増大したが、今度はその地位をめぐって士林内部の分裂が生じた。しかもその争いは、勲旧派と士林派の対立であった士禍と違って、政界の中枢部だけでなく、広範な人たちをまきこむ可能性をもっていた。士林派は儒教的道徳観を公論として理念化していたので、その分裂は公論、つまり公議の分裂を引き起こすことになるからである。こうして党争は朝鮮の儒教の学派対立と結びつき、一種の思想闘争にまで深化していく。この党争が激化した16世紀の末から17世紀の初めの朝鮮をめぐる国際情勢は大きく転換しようとしていた。豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱)があったのはまさにこの時期であった。<宮嶋博史・同上書 p.148>

党争の展開

 17世紀から18世紀にかけての朝鮮王朝の政治史は、いわゆる党争に明け暮れたといっても過言ではない。党争とは両班・知識人たちが党派に分かれて政界の主導権を争った現象を指す。17世紀以降、党争が激しくなった条件としては、(1)士林派による政権掌握以降、公論が重視されるようになり、政治参与層が拡大されたこと、(2)科挙の合格者数が次第に増加したにも関わらず官僚ポストは固定的であるため、官職をめぐる競争が激化したこと、の二点があげられる。こうした背景のもとで両班たちは党派を組んで政権争いをくりひろげたのである。<宮嶋博史・同上書 p.257>
南人と北人の分裂 豊臣秀吉軍の最初の侵攻があった1592年の前年、優勢だった東人が、西人への対応をめぐって穏健派の南人と強硬派の北人に分裂した。まず南人が政権を握ったが豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱)によって南人政権が倒れ、1600年に北人が代わって政権を執った。しかし、1608年に光海君の王位継承問題が起きると、北人は大北(光海君擁護派)と小北(光海君反対派)に分裂、大北が政権を掌握した。ついで1623年、西人が光海君の暴政に対してクーデタを起こし、北人を追放した。
老論と少論の分裂 その後も西人と南人は些末な礼をめぐる論争という形を取りながら、実質は王位継承をめぐる陰湿な抗争を繰り返し、たびたび政権が交代した。1680年に権力をにぎった西人の宋時烈は朱子学の立場の保守的な姿勢を強め、一切の革新的な論説を認めず、反対派を反逆者、賊臣として処分したために反発が強まり、1683年に宋時烈支持の保守派が老論、反宋時烈の革新派が少論とに分裂した。これによって17世紀末から党派は、老論・少論・南人・北人の4党派のみとなり「四色(サセク)」と言われるようになった。
英祖の改革 1694年からに英祖(在位1724年~76年)の時代初期にかけて老論と少論のあいだで激しい党争が展開され、1728年には少論政権の内部で対立が起こり、強硬派が南人と結んで反乱を起こすなどの事件が続いた。英祖は反乱を鎮圧した後、老論・少論の双方から同数ずつ議政・判書を登用する蕩平策をとって両者の調停を図った。それによって党争の激化は抑えられたが、党派間の力関係の固定化がもたらされ、しだいに老論の優位な体制が確立していった。四色党派は老論が第一、少論が第二で、南人・北人は弱小勢力という力関係が固定化され、また党派は家系によって世襲される門閥政治の傾向が強まった。<糟谷憲一・同上書 p.12>
老論の政権独占 1800年に即位した純祖の外戚として政権を握った安東金氏(安東を本拠とする金氏)は老論の立場を固め、批判を抑え込んだ。老論の安東金氏は純祖・憲宗・哲宗の三代にわたって王妃を一族からだして権力を維持した。このような国王の外戚による政権独占体制は勢道政治といわれた。このような老論(保守強硬派)による政権独占は、売官や賄賂などの不正の温床となっただけでなく、財政破綻を招き、その打開のための重税が民衆を苦しめ、1811年から農民反乱の洪景来の乱が起こって矛盾が表面化し、さらにおりから盛んになった外国船の来航して朝鮮の開国を要求したり、国内でのキリスト教の広がりなどの新たな問題への対応を困難にして朝鮮王朝の動揺が深まったと言える。
 1863年に、安東金氏と関係のない高宗が即位し、その父の大院君が政権を握ったことは、このような党争の流れと勢道政治を転換させる機会となった。

参考 党争の評価

 17~18世紀の党争をどう評価すべきか。このような党派性と(不毛な)抗争が続いた現象を、朝鮮民族の民族性と見なし、その後進性を強調する見解が、戦前の日本による朝鮮植民地化を正当化する立場からだされることがある。戦前の日本では一般的に見られた説であるが、現在では特殊な立場からの発言に過ぎなくなっている。韓国の研究者の中では党争の否定的な評価を継承しながら、それを民族的特性と見るのではなく、党争を平和的な政権交代の政治ルール(朝鮮王朝を継続させるための)としての側面を評価する意見も出されている。しかし言論活動が公論として政治を動かし、ルールとされていたのは15~16世紀の「士林」の活動期であり、「党争」が本格化する17~18世紀には科挙をつうじての官僚登用も固定化され、両班社会も硬直化しており、党争が政治ルールとして機能していたとは考えられない。
(引用)党争はけっして朝鮮民族の民族性のあらわれなどではない。といって、党争により平和的な政権交代のルールが確立されたと、単純に評価しうるものでもない。それは16世紀から17世紀にかけての政治構造の変化の産物だったのであり、両班を担い手とする統治体制の活力自体は、党争の過程でしだいに枯渇化して行かざるをえなかった。<宮嶋博史・同上書 p.267>
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岸本美緒/宮嶋博史
『明朝と李朝の時代』
世界の歴史 12
中央公論新社

糟谷憲一
『朝鮮の近代』
世界史リブレット45
1996 山川出版社