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アダム=シャール/湯若望


アダム=シャール

ドイツ人のイエズス会員、明末清初に中国布教に従事。西洋暦法により時憲暦を作る。中国名は湯若望。

 ドイツ出身のイエズス会宣教師。明末の1622年に中国に渡り、布教を始めたキリスト教宣教師の一人。中国名湯若望。明の崇禎帝に仕え、徐光啓と協力して暦法を改正(『崇禎暦書』)し、また大砲の鋳造にあたった。アダム=シャールの製造した大砲は、それまでのポルトガル人やフランス人が伝えた仏朗機(フランキ)砲に対し紅夷砲(ドイツ人やオランダ人は紅夷といわれていた)といわれ、弾道に基づく照準法も伝授したので性能がよく、清軍の侵攻に悩む明にとって大切な武器となった。明が滅ぶと清に仕え、西洋暦法の正しさを実証して採用され、時憲暦という暦をつくり、1645年から施行された。彼はさらにイエズス会宣教師でありながら、北京の天文台長官(欽天監正)に登用された。

中国暦法と西洋暦法

 暦づくりは皇帝つまり天子の重要な任務と考えられていたので、中国の歴代王朝はそれぞれ暦法の採用には重大な関心を持っていた。元では郭守敬がイスラーム暦を参考に授時暦を作り、明朝はそれを受けて大統暦を制定し、朝貢国にも頒布して使用させ、その権威を示していた。ところが明も後半になってくると、この大統暦にも狂いが生じ始めたにもかかわらず、天文関係の官職は世襲化しており、暦の改正には不熱心であったので、暦日と現実の気候のずれが大きくなってしまった。
 アダム=シャールは弟子の徐光啓らと共に暦法の改定を提案、崇禎二年に中国伝来の暦法と西洋暦法のいずれが正しいか、暦法の技術試合が行われた。その結果、アダム=シャールが勝ち、明朝も漸くその改定に着手することになったが、完成する前に明朝が滅亡してしまった。
時憲暦の制定 1644年、北京に入城したの摂政ドルゴンは、明に代わって正確な暦を制定することによって王朝支配の正当性を示そうと考え、宣教師アダム=シャールに目を付けた。8月1日が日食にあたっていたので、北京の看象台(天文台)でふたたび技術比べが行われ、このときも大統暦もイスラーム暦もみな時刻が狂い、アダム=シャールの新法だけが見事にその正確さが証明された。ドルゴンはその新暦法を「時憲暦」として1645年から実施することにした。そして順治帝の北京入りをまち、同年11月にアダム=シャールは天文台長に任命された。
(引用)この神父登用事件は、また、清朝君主が時代に鋭敏な、進歩的性格の持ち主であったことを示すものと言える。その点、保守退嬰的な明の君主とまさに対照的といえるだろう。ただそれが、独走に終わるところに悲劇があった。はたしてこの紅毛の天文台長も、順治帝が死ぬと、康煕帝の幼年の時期をねらって出てきた保守派の満漢人官僚に讒言されて、投獄のあげく憂死する悲運にみまわれた。<三田村泰助『明と清』世界の歴史14 河出文庫 p.292>
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7章2節 エ.清代の社会と文化
書籍案内

三田村泰助
『明と清』
河出文庫/世界の歴史14
1990 河出書房新社