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キリスト教宣教師

16世紀から中国や日本など世界各地にカトリックの伝道のために派遣された。その中心となったのはイエズス会であり、背景には対抗宗教改革があった。

 中国には1517年、ポルトガルの商船が渡来し、ヨーロッパ人との交渉が始まり、1557年マカオに居住地を設け国際貿易が始まった。まさにこの時期は、ヨーロッパで宗教改革が始まった時期に当たり、カトリック勢力は対抗宗教改革の推進組織としてイエズス会を結成、新教側に先立って積極的な海外布教に乗り出していた。
 ポルトガルやスペインの東洋進出は「胡椒と霊魂」といわれ、商業的な利益を上げることと、カトリックの布教とが不可分に結びついていた。まず、イエズス会のフランシスコ=ザビエルが1549年に日本に渡航しキリスト教の日本布教を開始、52年には中国布教を目指してマカオに向かうが、広東の上川島で病死した。彼に続いて16世紀後半から続々と宣教師が渡来するが、最も知られているのはマテオ=リッチである。以後、アダム=シャールなどが続くが、おりから明末清初の混乱期にあたり、宣教師の伝えた大砲などが新たな武器として使用された。 → 明の文化

清代の宣教師の活動

 清朝は明朝に続き、当初はキリスト教宣教師の活動を認めたため、17世紀の北京の紫禁城にも多数の宣教師が活動していた。活躍した代表的な宣教師は、明末からのアダム=シャール(湯若望)、康煕帝時代のフェルビースト(南懐仁)、ブーヴェ(白進)、雍正帝・乾隆帝時代のカスティリオーネ(郎世寧)らであり、彼らはローマのコレジオ=ロマーノで最新の学問や技術を身につけ、布教の情熱に基づいて渡来してきた。彼らは皇帝に使え、天文台で天体観測を行い、正確な暦を作ることに従事した。また、康煕帝自身も紫禁城内に南書房を設け、ラテン語や数学を学んだ。また中国最初の実測図である『皇輿全覧図』を宣教師に命じて作成させた。また宣教師はネルチンスク条約の交渉で通訳を務めるなど、皇帝政治に仕え重要な役割を果たしていた。 → 清の文化

典礼問題とキリスト教の布教禁止

 清代に活躍した宣教師はイエズス会に属していいた。それはカトリックの中心がイエズス会の盛んなフランスに移ったことを反映しており、ルイ14世によって派遣されたブーヴェなどフランス人宣教師が多くなっていた。これにたいして反イエズス会の会派(ドミニコ派やフランチェスコ派)がイエズス会の隆盛に反発し典礼問題が起き、康煕帝はイエズス会以外の宣教師の活動を停止したため、ポルトガル人宣教師はマカオに退去した。次の雍正帝は1723年にキリスト教の布教禁止に踏み切り、政府に仕える宣教師の北京残留と天主堂の所有は認めるが民間の宣教師の全ては退去が命じられた。これによって事実上の布教はできなくなり、ヨーロッパからの学問の流入も止まることとなった。次の乾隆帝はカスティリオーネらの請願を受け、布教禁止の対象から漢人をはずしたが、キリスト教の全面的布教自体は認められず、宣教師は皇帝仕えて宮廷の装飾画などを描くことなどのみが仕事となった。1773年にはイエズス会そのものが活動を停止したため、中国におけるキリスト教布教の長い伝統は一旦中断されることとなる。