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授時暦

1280年、元の郭守敬が作った暦。イスラーム天文学の観測技術を採り入れ、現在のグレゴリウス暦に等しい正確さの暦を作った。

 フビライ=ハンに仕えた郭守敬イスラーム暦の観測技術などを採り入れ、1280年に作った暦法。
 中国では殷周時代以来、各王朝が制定する太陰暦(実際には太陰太陽暦)で1年を365.25日とされていたが、授時暦では1年は365.2425日で、地球の公転周期との差はわずかに26秒であった。その正確さはこの約300年後の1582年、ローマ=カトリック教会でグレゴリウス13世の時に考案され、現在通用しているグレゴリウス暦(ヨーロッパでそれまで用いられていたユリウス暦に変わり制定された暦法)に等しいという正確なものであった。授時暦は高麗に伝えられ、高麗の暦法にも影響を与えた。さらに日本にも影響を与え、江戸時代の渋川春海が1685年に作った「貞享暦」も授時暦に基づいている。 → 中国の暦法

イスラーム天文学と郭守敬

 郭守敬は、イスラーム天文学の観測技術を採り入れて、高度な観測器機や天文台を使って正確な暦日を編制したが、その基本は中国古来の太陰太陽暦であり、太陰暦であるイスラーム暦(ヒジュラ暦)をそのまま導入したわけではないことに注意したい。
 イスラーム科学の中でもっとも繁栄した学問のひとつは天文学であり、モンゴル帝国でもフラグがペルシアを征服してイル=ハン国を立てたとき、イスラーム諸国でもっとも偉大なペルシア人天文学者ナシル=エッディンがフラグに仕え、首都ダブリーズに近いマラガに天文台を作っている。マラガの天文台では多くの天文器機が設置され熱心な観測が行われた。フビライもイスラーム天文学の優秀性を認め、1271年には「回々司天台」というイスラーム天文学者を中心とする国立天文台を設置した。
(引用)しかし世祖フビライの時代になると、黄帝をはじめモンゴル人の間にも中国の伝統的学問がかなり浸透していた。元が南宋を滅ぼし、中国の統一を完成した時に採用した暦法は、イスラムのそれではなく、中国の伝統に根ざした授時暦が公用歴として採用された。これは漢民族の天文学者郭守敬らによって作られたもので、イスラム天文学の影響はまったく認められない。ただこの授時暦を作るときに冬至や夏至の日時を観測し一年の長さを正確に決定したが、この観測のために設けられた天文台は、明らかにイスラムの影響下に作られた。また郭守敬は多くの天文器械を作ったが、簡儀(かんぎ)その他、二、三の器械はやはり西域のものを模倣したものであった。<薮内清『中国の科学文明』1970 岩波新書 p.137-138>

その後の中国の暦法

 中国では、次の明朝が授時暦を一部修正して、1368年に大統暦を採用した。授時暦・大統暦は優れた暦法であったが、次第に暦日と実際の気候とが合わなくなり、農作業に支障が出始めた。イエズス会の宣教師アダム=シャールが弟子の徐光啓とともに西洋暦法による新暦を作成、明末の1629年に『崇禎暦書』を著すと、楚の正確さが知られるようになったが、間もなく明が滅亡し、暦改訂は実現しなかった。次の清朝は、新たな暦の制定に熱心で、アダム=シャールに命じて新暦の制定にあたらせ、1645年から時憲暦として実施された。グレゴリウス暦(太陽暦)に切り替わるのは、辛亥革命の翌年、中華民国第1年の1912年からである(日本の太陽暦切り替えは1873年)。

出題

 東京大学 2007  第2問 問(3) 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元~清の中国における暦法の変遷について、4行(120字)以内で説明しなさい。

解答(例)

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書籍案内

薮内清
『中国の科学文明』
1970 岩波新書