印刷 | 通常画面に戻る |

ウィーン包囲(第1次)

1529年、オスマン帝国のスレイマン1世が大軍を率いて神聖ローマ帝国の拠点ウィーンを包囲した。当時のヨーロッパ・キリスト教世界に大きな脅威となったが、冬の到来を前に撤退した。その後、ハンガリー南半分はオスマン帝国領とされた。

 オスマン帝国スレイマン1世モハーチの戦いでハンガリーを制圧したが、神聖ローマ帝国カール5世がボヘミア・ハンガリーの王位を継承したことに対して圧力を加えるため、オーストリアのハプスブルク家の拠点ウィーンを攻撃した。

スレイマン1世のウィーン包囲

 このウィーン包囲(第1次)は1529年9月に始まった。オスマン軍は鉄砲を装備する歩兵集団であるイェニチェリ軍団と、スルタン直属の騎士であるシパーヒーなどからなる約12万の兵力を擁した。ウィーン防衛はカール5世の弟フェルディナントが、5万数千軍で固めていた。オスマン軍は攻城用に大砲を用いようとしたが、肝心の大砲が輸送困難で到着せず、さらに歩兵・騎兵の補給も困難になり、冬が近づいてきたのでスレイマン1世は10月14日に撤退を決断した。
 その後も数度にわたってオスマン朝とオーストリアの両軍はしばしば戦い、1547年までに休戦協定が結ばれたが、結果的にハンガリーは分割され、ブダペストを含む中・南部はオスマン帝国領とされた。ハンガリー南半分のオスマン帝国による支配は、約130年続くこととなる。
 スレイマン1世のウィーン攻略はならなかったが、ハプスブルク家の都が異教徒に包囲され、ハンガリーの南半分を失ったことは、1453年のコンスタンティノープル陥落と同じ衝撃をヨーロッパのキリスト教徒に与えた。 → ウィーン包囲(第2次)
印 刷
印刷画面へ