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ウィーン包囲(第2次)

1683年、オスマン帝国は第2回目のウィーン包囲を行ったが失敗した。その後、オーストリアはハンガリーを回復して大国化し、オスマン帝国は衰退が始まった。

 1683年にオスマン帝国が、神聖ローマ帝国ハプスブルク家の都ウィーンを包囲し、攻撃した。
 オスマン帝国は、16世紀後半から17世紀にかけて、スルタン権力が動揺し宦官、後宮の女性などが政治に介入し混乱が続き、実権は大宰相に握られていた。大宰相の地位に就いたカラ=ムスタファは、功名心からハプスブルク領への進出をもくろみ、フランスのルイ14世から中立の約束を得て、トランシルヴァニアとハンガリーでハプスブルク家の支配に反発していた諸侯の軍を併せて、15万の大軍を編成し、1683年7月15日にウィーンを包囲した。ウィーンには1万6千の軍隊と6000人の市民兵しかいなかった、

キリスト教国連合軍が撃退

 ウィーンの神聖ローマ皇帝レオポルト1世(マリア=テレジアの祖父)は家族とともにバイエルンに難を避け、陥落目前までになったが、第1次ウィーン包囲の後に城壁は増強されていたので、なんとかもちこたえていた。キリスト教国連合軍は、ポーランド王ソビエツキ(ヤン3世)が指揮して9月11日に来援し、オスマン軍を敗走させ、ウィーンは危機を脱した。さらにオーストリアのオイゲン公はオスマン帝国軍を追撃してハンガリーを解放、オーストリア大国化へのきっかけを作った。
 その後もオスマン軍はハプスブルク軍に敗北を重ね、1699年のカルロヴィッツ条約でようやく和平したが、これによってハンガリーの大半を失い、ヨーロッパ領土の縮小が始まって、オスマン帝国は衰退していくこととなるが、首都イスタンブルと小アジアの領土を維持しながらなおも20世紀初頭まで存続する。 ← 第1次ウィーン包囲 

Episode 大宰相の野心とその最後

 第2次ウィーン包囲を主導した大宰相カラ=ムスタファは、有能で経験も豊かだったが、また限りない野心の持ち主でもあった。しかし、その敗北の代償も大きく、スルタンから死を賜った。「オスマン軍団の無敗神話」が雲散霧消し、7世紀以来のヨーロッパ世界に対するイスラーム教の脅威は終わりを告げた。

(引用)この者の性格にはバヤズィト1世張りのところがあり、実行力に物をいわせて自分の馬をウィーン城内に乗り入れ、さらにライン河畔にまで進んで、できうればルイ14世と対決したかった。自信過剰というか、シュレイマン大帝が企てて果たしえなかった大業を、自分の手でやりとげたかった。<三橋冨治男『トルコの歴史』1994 紀伊国屋新書 p.234>
(引用)西暦でいえば1683年のクリスマスの翌日、ベオグラード滞在中のカラ=ムスタファ=パシャは、イスタンブルの主君からの使者を迎えた。折も折、このオスマン帝国の大宰相は、正午の礼拝をおこなっていたが、スルタンと称された帝国の君主から差遣された勅使が死を告げても動じなかった。ややあって礼拝を終えると、毛皮の外套とターバンをみずからとって、かれは進んで長髯をかきあげた。死刑執行吏に絞首されたのはその瞬間である。首級はイスタンブルのスルタンのもとにおくられた。カラ=ムスタファ=パシャは、平時においては文官のトップ、戦時においては最高司令官スルタンの名代となる帝国のしきたりにしたがって出征したが、国運を賭した戦いに敗れて重大責任を問われたのである。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 1996 中央公論新社 p.19-20>
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ノートの参照
第13章1節 ア.オスマン帝国支配の動揺
書籍案内
三橋冨治男
『トルコの歴史』
1994 紀伊国屋新書

山内昌之
『近代イスラームの挑戦』
世界の歴史 20
1991 中央公論社