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ウィーン/ウィンドボナ

ドナウ中流に、ローマ時代に建設された砦ウィンドボナに始まる古都。13世紀からハプスブルク家の拠点となり、神聖ローマ帝国・オーストリアの都として栄えた。ナポレオン戦争後のウィーン会議など国際政治の舞台となり、音楽など芸術・学術の中心のひとつでもある。

 ドナウ川中流にあるローマ時代のウィンドボナに始まり、フランク王国・神聖ローマ帝国の東部辺境伯(オストマルク)が置かれ、13世紀からはハプスブルク家の拠点となって繁栄した都市。現在はオーストリアの首都。中部ヨーロッパの重要都市で、国際政治の舞台となり、さらに音楽が盛んなことでも知られる。

ローマ時代のウィンドボナ

 ローマ時代の国境であったドナウ川中流に、ローマが建設し軍団を駐屯させた。その砦の一つがウィンドボナ。常にゲルマン人との戦いの最前線であった。五賢帝の最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌスは遠征先のこの地で死んだ。
(引用)ウィーンの中心部には、多くのローマ時代の遺跡が残っているが、1970年代、地下鉄の工事がおこなわれるようになると、次々と遺跡が発見された。ホーアー・マルクトの遺跡には、ローマ軍将校の床暖房設備がある住居の名残が見られる。1989年から91年にかけて、王宮前のミヒャエラープラッツでも、発掘調査がおこなわれ、ここにもローマ人が居住していたことがわかった。ホーアー・マルクトにあったような住居とは違って、女性や子どもたちが住んでいた。軍営地の外の家族用につくられた居住区といった役割をもったところだった。というのも三世紀ころまでは軍営地内のローマ人は、公式には結婚することが認められず、非番のときだけ軍営地外ににある家族のところで過ごしたからだそうだ。<河野純一『ハプスブルク三都物語 ウィーン、プラハ、ブタペスト』2009 中公新書 p.8>

辺境伯領からハプスブルク家の支配へ

 ローマ帝国が消滅した後は、ドナウ中流域にはアヴァール人などの民族が移動してきたが、8世紀末にフランク王国のカール大帝がアヴァール人を征服し、この地に最初の教会を建て、当方支配の拠点とした。996年に、東の国という意味のオストマルクがはじめて登場、そのラテン語表記から来た地名がオーストリアとなる。
 ウィーンには12世紀に神聖ローマ帝国辺境伯の一つである東部辺境伯となったバーベンベルク家の居城が置かれた。辺境伯はその後、ホーエンシュタウフェン家を経て、13世紀以降はハプスブルク家がその地位につき、ウィーンはその支配をうける。
ハプスブルク帝国の都 1273年、大空位時代が終わり、神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家のルドルフ1世は、1278年、拠点をスイスからウィーンに移し、それ以後、ウィーンは1918年まで640年にわたって神聖ローマ帝国の都とされた(短期間だがプラハに移された時期もある)。
 1365年、ルドルフ4世(在位1358~65)はウィーン大学を創設した。これはドイツ語圏でプラハ大学(1348年創設)に次ぐ2番目に古い大学であった(3番目は1386年のハイデルベルク大学)。同じく1365年に、ウィーンの中心的寺院であるシュテファン大聖堂が本格的なゴチック建築として建設が開始された。<河野純一『同上書』 p.15-17>

オスマン帝国のウィーン包囲

 15世紀にはハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝位を継続するようになり、ウィーンもその宮廷が置かれて繁栄した。ハプスブルク家はウィーンを拠点としながら、婚姻政策によって西ヨーロッパに領土を広げ、次第にその軸足を西方に移していった。ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世となったが、フランス王フランソワ1世との争い、そして宗教改革の始まりという内外の危機に謀殺され、ウィーンは弟のフェルディナントに任せる形となった。
第1次ウィーン包囲 その時期はバルカン半島に侵入したオスマン帝国の圧力が強かった時期で、1529年にはスレイマン1世の大軍による第1次ウィーン包囲を受けた。フェルディナントがウィーンの防衛に当たり、冬の到来と共にオスマン軍が撤退したため占領を免れた。
 16世紀、カール5世の死後は、ハプスブルク家がスペインとオーストリアに分裂、ウィーンはカールの弟フェルディナントに始まるオーストリア=ハプスブルク家の拠点となった。ウィーンは神聖ローマ帝国の都として繁栄したが、1679年にはペストの流行によって大きな被害を受け、犠牲者はほぼ10万にのぼった。いまウィーンのグラーベンに立つ美しい柱は時のレオポルト1世が、ペストの終焉を記念して建てたものである。
 17世紀の危機ともいわれるヨーロッパキリスト教世界が三十年戦争(1618~48年)で揺らぐ中、オスマン帝国は東方のサファヴィー朝との抗争で西方に関心を向けられなかったが、その世紀末になると再びバルカンへの進出を目指すようになった。おそらくオスマン帝国自体の衰えを外征によって立て直す意図があったと思われる。
第2次ウィーン包囲   1683年にオスマン帝国軍による第2次ウィーン包囲が行われ、ウィーンは再び大きな危機に陥った。ウィーンの市民が義勇兵として防衛に参加して頑強に抵抗したことと、オスマン軍にかつてのような組織的な強靱さがなくなっていたこともあり、援軍に駆けつけたポーランドの騎兵によって1日で撃退されてしまった。再びポーランドなどのキリスト教国連合軍の勝利となっただけでなく、この敗北を機にオスマン帝国はヨーロッパでの領土を縮小させていく契機となった。1683年はウィーンにとって「すばらしい年」となったが、ウィーンで最初のコーヒー店が開店したのもこの年の終わりだった。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.41>

「ハプスブルク帝国」の首都

 ハプスブルク家のオーストリアは、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの南部、北イタリアを支配し、さらに17世紀末までにはオスマン帝国からハンガリーを奪い、現在の中欧と言われる広い範囲を支配したので、ウィーンはそのハプスブルク帝国の首都として大いに繁栄した。しかし、ドイツ人の支配に対するチェコ人やハンガリー人の反発も強まっていった。17世紀前半の三十年戦争で神聖ローマ帝国の実態はなくなり、オーストリアを中心とするハプスブルク帝国がその実態となった。ウィーンにハプスブルク家の宮殿として造営された(1695~1744年)シェーンブルン宮殿は、外観はバロック様式であるが、内装は華麗なロココ様式が採り入れられている。
 18世紀にはハプスブルク家の継承問題から、北方のプロイセンとの対立が激化し、オーストリア継承戦争、七年戦争という苦難が続き、その間、実権を握ったマリア=テレジアのもとでオーストリアは上からの改革を進め、ついでヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として近代化を推進した。18世紀から19世紀にかけて、ウィーンにはモーツァルト、ベートーベンなどが活躍し、音楽の最も先進的な文化都市とされた。

ウィーン会議と三月革命

 オーストリアはナポレオン軍に敗北、1806年フランツ2世が退位して、神聖ローマ帝国は消滅した。その後はウィーンはオーストリア帝国の首都として再び国際政治の舞台、ウィーン会議が開催された。それをリードしたのがオーストリア外相、後に首相となったメッテルニヒであった。  このウィーン体制の時代(1814~1848年)はウィーンがヨーロッパ世界の中心として位置づけられていたといえる。しかし、足許のオーストリア帝国で多民族国家である帝国内の被抑圧民族の自由を求める運動が強まり、1848年にフランスの二月革命に触発されて、ウィーンでも三月革命が勃発すると、メッテルニヒはそれを抑えることができずに亡命した。

ウィンナ・ワルツの革命性

 18世紀末に生まれ、19世紀前半にウィーンで大流行し、洗練されていった音楽が「ウィンナ・ワルツ」だった。特にヨハン=シュトラウス親子はたくさんのワルツを作曲し、酒場やホールで盛んに演奏され、それに併せて人々が踊った。それまでの伝統的な踊りはメヌエットといい、集団で踊るものであったのに対し、ワルツは農民のダンスであるレントラーから発展したもので、男女がペアになって踊るものだった。
(引用)ウィンナ・ワルツの誕生は、ダンスのみならず、社会慣習からいってもまさに“革命”であった。メヌエットとは対照的に、最初から特定の男女がペアを組むのであった。そればかりではない。彼らは互いに相手と身体を密着させて踊るのである。それは保守的な上流階級の人々にとっては、不道徳そのものに映った。ウィンナ・ワルツによって、公の場で男女が抱き合うことが、認められることになったのである。個々のペアが、旋回しながら滑るように踊る新しいダンスの魅力には、彼らも勝てなかったのである。こうしてシュトラウスの時代に、ウィンナ・ワルツはあらゆる階級にゆきわたる。そしてドナウの都から国のすみずみまで、さらにはヨーロッパ全土へと広がっていったのである。<加藤雅彦『ドナウ河紀行』1991 岩波新書 p.47>

Amazon Music ウィーンニューイヤーコンサート 2002 小澤征爾指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によるヨハン・シュトラウス作品集の楽しい演奏

ウィーンの改造

 三月革命の争乱の最中に即位した若き皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の時代、19世紀後半にウィーンでもようやく産業革命が始まり、近代的な都市へと脱皮した。その象徴が、かつてオスマン軍の猛攻を凌いだ旧市街の城壁を取りこわし、道幅の広い環状道路リング=シュトラーセが作られたことである。これによってウィーンの景観は一変した。
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書籍案内

河野純一
『ハプスブルク三都物語
ウィーン、プラハ、ブタペスト』
2009 中公新書

加藤雅彦
『ドナウ河紀行』
1991 岩波新書

増谷英樹
『図説ウィーンの歴史』
2016 河出書房新社