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オーストリア=ハプスブルク家

13世紀から続くハプスブルク家の本流。1556年にスペインの同家が分離した。

 神聖ローマ帝国の皇帝位を1273年から続けている、ハプスブルク家の本流。オーストリアを領有し、ドイツ王も兼ねていたが、カール5世が1516年スペイン王(カルロス1世)となってからはスペインも支配下においた。1556年、カール5世の皇帝位退位後、オーストリアはカールの弟フェルディナンド1世が継承し、スペインはカールの子フェリペ2世が継承したのでハプスブルク家はオーストリア=ハプスブルク家とスペイン=ハプスブルク家に分かれた。 → ハプスブルク家の分裂

フェルディナンドの苦悩

 カール5世は神聖ローマ皇帝となったが、スペインにいることが多く、ハプスブルク家の本拠ウィーンには弟のフェルディナンドがいた。1529年、オスマン帝国のスレイマン1世がウィーンを包囲(第1次)したときも、それと直接戦ったのはフェルディナントのオーストリア軍でだった。フェルディナンドはまた、プロテスタントとの戦いにも直面していた。カールは晩年、健康を害し、長い戦争に疲れてしまい、1555年のプロテスタントとのアウクスブルクの和議の交渉も弟フェルディナンドにまかせたのだった。弟フェルディナントにはオスマン帝国とプロテスタントという両面の敵からウィーンを守った実績があったので、カール5世も家督を分割し、神聖ローマ帝国の位は彼に譲らざるを得なかった。

オーストリアの発展

 オーストリア=ハプスブルク家は、フェルディナント1世の後、フェルディナント2世の時、領土内のボヘミア(ベーメン)の新教徒の反乱から始まった三十年戦争で領土を失うが、一方で1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーを獲得、さらに1701年に始まるスペイン継承戦争でイギリス、オランダ、プロイセンなどと共にルイ14世のフランスと戦い、有利な戦いを進めて、1704年のラシュタット条約でスペイン領であった南ネーデルラント、ミラノ、サルデーニャなどを獲得し、大国としての地歩を固めた。

オーストリア継承戦争

 しかし、カール6世は男子後継者がいなかったので、プラグマティッシェ=ザンクチオンを定めてハプスブルク家の帝位の安定を図っていたが、1740年にが死去し、マリア=テレジアが即位すると、それに異議を唱えるプロイセン王国のフリードリヒ2世との間でオーストリア継承戦争が起こった。

外交革命によるフランスとの提携

 オーストリア=ハプスブルク家は一貫してフランスのブルボン家とヨーロッパの覇権を争い、それがヨーロッパ国際政治の対立軸となってきたが、新たにプロイセンという強力な敵対勢力が出現したため、マリア=テレジアは、一転してブルボン朝と結び(外交革命)、七年戦争でプロイセンと再戦した。その結果、シュレージェンを失うが、その後もハンガリー、ベーメンなどを中欧に広大な領土を維持し、ヨーロッパの大国としての国際的な地位を守った。

神聖ローマ皇帝からオーストリア皇帝へ

 マリア=テレジアと次のヨーゼフ2世はポーランド分割にも加わり領土を広げた。しかしナポレオン戦争に敗北してついに神聖ローマ帝国は消滅(1806)、それ以後はハプスブルク家はオーストリア皇帝(フランツ1世)として続いた。1866年には普墺戦争でプロイセンに敗れ、翌年オーストリア=ハンガリー二重帝国に移行し、ハプスブルク家はハンガリー王位を兼ねた。第一次世界大戦のフランツ=ヨゼフ1世を経て、大戦の敗北によって1918年11月11日、最後の皇帝カール1世が退位して、オーストリア=ハプスブルク家の支配は終結した。

Episode ハプスブルク家の終末

 19世紀中頃から第1次大戦勃発まで、フランツ=ヨゼフ1世(在位1848~1916年)は68年間という驚異的な在位記録を持つハプスブルク家の皇帝であるが、弟のマクシミリアンはメキシコ皇帝となって統治に失敗して銃殺され、長男ルドルフは父と意見が合わす愛人と一緒に自殺、妻のエリーザベトはアナーキストに暗殺されるという悲劇的な晩年であった。さらにルドルフに代わって皇太子となったフランツ=フェルディナンド(皇帝の甥)は1914年セルビアのサライェヴォで銃弾に倒れ、第1次世界大戦のきっかけとなった。1918年、大戦の終了とともに最後の皇帝カール1世(フランツ=フェルディナンドの甥)が退位して長いハプスブルク家の歴史を閉じた。なお、カール1世の長男のオットーは現在ドイツ在住で、欧州議会の議員をしているそうです。<加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』1995 河出書房新書 などによる>
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ノートの参照
8章4節 ウ.スペインの全盛期