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コンスタンティノープル陥落

1453年メフメト2世のオスマン帝国軍が包囲し、陥落させた。これによりビザンツ帝国は滅亡、この都市はイスタンブルと言われるようになった。

 1453年5月29日、ビザンツ帝国は、都のコンスタンティノープルを、メフメト2世の率いるオスマン帝国軍の猛攻の前に陥落し、滅亡した。メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブルと改称してオスマン帝国の新たな首都とした。

ビザンツ帝国の状況

 ビザンツ帝国の皇帝コンスタンティノス11世(パライオロゴズ朝)の頃、その領土は首都コンスタンティノープルの周辺のわずかな土地と、小アジアなどのわずかな飛び地しか残されていなかった。ビザンツ皇帝はオスマン帝国の襲来を予期し、東西教会合同を条件にローマ教皇に援軍を要請したが、コンスタンティノープルの市民はむしろそれを期待しなった。都には約7千の軍隊しか残っていなかったと思われる。

オスマン帝国の総攻撃

 1453年4月、オスマン帝国の23歳の青年スルタンメフメト2世は、正規軍8万、不正規軍2万~4万、あわせて10~12万の軍勢でコンスタンティノープルを包囲した。そのうちイェニチェリ軍団が1万~1万2千、主力をなすのはティマールという知行地を与えられた騎兵軍であった。しかしコンスタンティノープルは東側は海に突き出た犀の角のような地形をしており、西側の陸地に通じる面には三重の城壁が造られ攻撃は困難が予想された。メフメト2世とオスマン軍の主力は西側の大城壁前に陣取り、大砲を備え付け、砲撃を開始した。海上ではオスマン海軍は非力であったが、艦隊の一部をコンスタンティノープルの北東の対岸に陸揚げして封鎖されていた金角湾に入れ、海上から砲撃した。ビザンツ側はヨーロッパ諸国の援軍を期待したが、援軍到着前の5月28日、コンスタンティノープルは陥落した。

Episode ウルバンの巨砲

 メフメト2世はコンスタンティノープル攻撃のために巨砲を建造するこにした。そのため、ハンガリー人の技術者ウルバンを巨額の報酬で迎え、エディルネで製造にあたらせた。「この巨砲は、砲身の長さが約8.2m、厚さが約25.4cm、砲口の口径が約67.2cmもあったという。この巨砲のためには、黒海方面から取り寄せた石で巨丸を造った。この巨丸は約550キログラムから600キログラムもあったという。・・・」この巨砲をコンスタンティノープルまで運ぶのには、30の車をつなぎ合わせ、60頭の牛に引かせ、ひっくり返らないよう左右に各200名が支えた。コンスタンティノープル包囲戦ではこのウルバンの巨砲が大活躍した。この巨砲が据えられた聖ロマノス門は、現在ではトルコ語で「トプカプ(大砲の門)」と呼ばれている(「トプカプ宮殿」とは別)。<鈴木董『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』1992 講談社現代新書 p.63,68>

Episode 最後の皇帝コンスタンティノス=パライオロゴス

 皇帝は最後を悟り、演説をした後押し寄せてくるトルコ兵の中に姿を消した。この皇帝の名は、夏目漱石の『吾輩は猫である』に出てくる。探してみよう。

1453年

 1453年、百年戦争は、フランス軍がイギリスの拠点ギエンヌ地方を奪還して戦闘が終わった。この年、東ヨーロッパでは、オスマン帝国の攻撃によってコンスタンチノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡した年である。また、この時代は北部イタリアでルネサンスが展開されていた時期であり、ビザンツ帝国の滅亡の前後に多くのギリシア人の古典学者が、イタリアに亡命したことによって、フィレンツェなどのイタリアの都市にギリシア古典文化がもたらされ、それがルネサンスの興隆に大きな刺激となるという役割を果たしたことも忘れてはならない。フィレンツェのコシモ=ディ=メディチプラトン=アカデミーを設立して、ギリシア思想の研究の場を提供した。
 百年戦争およびイギリスで続いて起こったばら戦争によって封建諸侯は没落し、国王への権力集中がはじまり、ヨーロッパに主権国家体制が成立することとなるが、その背景には、オスマン帝国の東ヨーロッパへの進出という脅威があった。
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ノートの参照
5章2節 ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡
7章3節 イ.オスマン帝国の成立と発展
書籍案内

ランシマン
『コンスタンティノープル陥落す』
新装版1998 みすず書房

鈴木董
『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』
1992 講談社現代新書