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サヴォナローラ

15世紀末、フィレンツェで修道士として激しい反メディチ家の説教を行い、イタリア戦争に乗じて1492年に実権を握って神政政治を行った。しかし民衆の支持を失い、ローマ教皇によって焚刑とされた。

 サヴォナローラは、ドミニコ会の聖職者で、ピコ=デラ=ミランドラの紹介で、ロレンツォ=ディ=メディチフィレンツェに招き、サン=マルコ修道院で活動していた。次第にメディチ家の独裁政治やローマ教皇の腐敗、ルネサンスの華美で軽薄な風潮に反発し、厳格な信仰に戻るべきであると考えるようになり、教会の説教を通じて民衆を煽るようになった。

フィレンツェでの神権政治

 イタリア戦争が勃発してフランス王シャルル8世がフィレンツェに入城してメディチ家を追放すると、1494年から98年までフィレンツェの実権にぎり、「虚飾の焚刑」と称して美術作品や焼き払うなど厳しい神政政治を行った。しかし最後は民衆の支持を失い、教皇アレクサンデル6世によって破門され、彼自身が焚刑に処せられた。サヴォナローラはルネサンスの全盛期に現れた特異な宗教改革者であったが、民衆の支持を受けることが出来ず、自滅したといえる。

Episode サヴォナローラの「虚飾の焚刑」

 フェラーラで生まれ、ボローニャで訓練をうけたサヴォナローラは、1482年にフィレンツェに招かれ、サン・マルコ修道院で説教を始め、その情熱的な説教が人気を呼んだ。彼はフィレンツェの教会で説教するうち、おりからのロレンツォ=ディ=メディチの独裁政治のもとて、フィレンツェの人々が腐敗した享楽生活を送っていることを鋭く批判するようになった。1492年、サヴォナローラはロレンツォの臨終に際してその罪を責めたといわれる(ロレンツォ=ディ=メディチの項参照)。サヴォナローラの鳴らした警鐘の通り、フィレンツェは災難に見舞われた。1494年にイタリア戦争が勃発、フランスのシャルル8世軍がせまってきたのである。ロレンツォの息子ピエロは抵抗することが出来ず逃げ出してしまい、あっけなくメディチ家の統治は途絶えた。かわって市民の代表に選ばれたのが、この事態を予言したサヴォナローラだった。かれは1498年までの4年間、フィレンツェの政治を行い、市民の贅沢を戒め、堕落の元凶として裸婦を描いた絵や楽器を没収し、あつめて焼き捨てるという「虚飾の焚刑」を実施した。しかし彼の厳しい神政政治は次第に市民の反発を受け、またローマ教皇庁、ドミニコ派と対立していたフランチェスコ派の宣教師たちの反発も強まり、1498年、教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを異端であるとして破門した。フィレンツェ市民はサン・マルコ修道院に押し寄せ、サヴォナローラを捕らえて引き立て、裁判かけて有罪にし、最後は焚刑にしてしまった。<高階秀爾『フィレンツェ』1966 中公新書などによる>
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8章2節 イ.ルネサンスの本質