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フィレンツェ/フィレンツェ共和国

14~16世紀、ルネサンスの中心地として繁栄した北イタリアの商業都市の一つ。12世紀に都市共和国(コムーネ)として自立し共和政を発展させた。次第に銀行業で富を蓄えたメディチ家が政治的独裁権を握るようになり、かつルネサンスの保護者となった。共和政とメディチ家専制の対立からローマ教皇、フランスなどの外部勢力の干渉を受けるようになり、政治的混乱が続き、1530年に都市共和政は崩壊し、メディチ家が世襲権力を獲得、トスカナ公国となる。

 英語の発音ではフローレンス。イタリアのルネサンス期に最も栄えた都市として知られる。北イタリア、トスカナ地方の内陸都市で、11世紀にはカノッサのトスカナ伯マティルダの支配を受け、その死後1115年に独立して都市共和国(コムーネ)となった。13世紀以降は毛織物業と金融業で繁栄し、独自の金貨フィオリーニを鋳造し、有力なギルドが形成された。

ゲルフとギベリン

 共和国内部ではゲルフギベリンの対立、市民層の上層と下層民の争いなどを経て、政治的にはゲルフ(教皇党)が優位に立ち、13世紀の中頃にはギベリンは衰退した。しかし、フィレンツェのゲルフはより革新的な白派(ビアンキ)と保守的な黒派(ネリ)に分裂して再び激しい抗争を展開、両派の政権交代が行われた。ルネサンスの先駆者ダンテはこのころのフィレンツェで活躍した。

フィレンツェ共和国

 14世紀に上層市民による共和政が確立し、ルネサンスの時代を迎えたが、同時に黒死病の流行で打撃を受け、1378年には、下層労働者が毛梳き工が蜂起したチオンピの乱が起こった。反乱は鎮圧され、政権は上層市民が独占するようになった。このころ、ペトラルカボッカチォが登場し、フィレンツェはルネサンスの震源地となった。美術では、ジョットマサッチョギベルティが活躍し、ブルネレスキサンタ=マリア大聖堂を建設、共和制時代のフィレンツェ=ルネサンス(15世紀)の象徴となった。
フィレンツェの共和政 その概略は、市民から選ばれる「正義の旗手(ゴンファロニエーレ)」が執行機関の最高責任者であり、8名の「総務(プリオーレ)」が一種の内閣を形成し、「人民(ポーポロ)評議会」が市民を代表して代議制が行われていた。フィレンツェの住民すべてが「人民」とされたわけではなく、アルテという各種の同業者組合の構成員に限られていた。アルテには大アルテと小アルテがあり、毛織物・絹織物・梳毛業・商人・銀行・医師薬剤師・法律家公証人の7団体が大アルテで、豊かで発言力が強く「ポポロ・グラッソ」といわれ、小アルテは石工、肉屋、酒屋、大工、左官など普通の職業で14団体で「ポポロ・ミヌート」といわれて区別されていた。かつては貴族の専制に対してともに戦ったが、この時代には、大アルテが権力を握った一種の同業組合国家という性格が強かった。参政権を持つ同業者組合構成員も全住民9万のうち、わずか300人ほどであったと言われている。次第に共和政は形骸化し、有力者による寡頭政治(シニョーリア制)の状況となっていく。

メディチ家の寡頭支配と学芸保護

 1434年以降は金融業を営み有力となったメディチ家が共和制の下で政権を掌握し、寡頭政治の形態が強まった。共和政の原則であるのでその地位は世襲ではなかったが、コジモ=ディ=メディチやその孫のロレンツォ=ディ=メディチはあいついで反メディチ派とたたかいならが市政の中枢を占めていた。この頃フィレンツェはイタリアの強国の一つとして、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、フランス王などが激しく競う国際政治においても重要な位置にあった。
 何よりもメディチ家は、その権威の強化のためにも、学芸・芸術の保護に熱心であり、その保護のもとでルネサンスは後期の爛熟期に入ったと言っていい。
ビザンツ文明の流入 このころ、東地中海世界ではオスマン帝国の圧迫が強まり、ついに1453年にコンスタンティノープルが陥落するが、その前後にビザンツ帝国から多くのギリシア人の学者が難を避けてフィレンツェに亡命し、それによってギリシア思想を直接学ぶことができるようになった。コジモ=ディ=メディチは特にプラトンに傾倒し、1459年にプラトン=アカデミーを設立した。

イタリア戦争とサヴォナローラ

 メディチ家のロレンツォの死後、1494年にイタリア戦争が勃発してフランス王シャルル8世がフィレンツェに入城し、メディチ家を追放した。背景にはメディチ家の専横に対する不満と、一部上層市民の堕落に対する宗教的反発があった。メディチ家の専横を激しく批判した聖職者サヴォナローラがキリスト教にもとづく狂信的な神政政治を行ったが、民衆の支持をなくし、ローマ教皇からも異端であると断定されたために失脚し、1498年に火刑に処せられた。

マキャヴェリとミケランジェロ

 サヴォナローラが失脚した後のフィレンツェは、古い家柄のソデリーニが執政官に選ばれたが、復権を狙うメディチ家と共和政を維持しようとする勢力が対立し、不安定な状態が続いた。この混乱の時期に、フィレンツェでイタリア統一を構想し、君主制のあり方を思索したのがマキァヴェリであった。
 また1504年、わずか29歳のミケランジェロは共和政政府からの依頼によって巨大な大理石像ダヴィデ像を創作した。ダヴィデ像は市庁舎の前の広場に置かれ、共和政の勝利のシンボルとして作られたたものであり、共和政の勝利のモニュメントであった。

メディチ家の復活

 しかしメディチ家は、1513年に一族からレオ10世、さらに1523年にクレメンス7世と二人のローマ教皇を出し、その力でフィレンツェ支配を復活させようと策謀、次第にメディチ家の実質的支配を回復した。マキャヴェリはイタリア統一には強力な権力が必要と考え、この時期にはメディチ家を支持した。ミケランジェロはフィレンツェを離れ、ローマ教皇の依頼でヴァチカン宮殿システィナ礼拝堂の天井絵の制作に取り組み、1512年に完成させた。

再びメディチ家追放

 16世紀の初め、ドイツには宗教改革が始まり、フランスのフランソワ1世と、神聖ローマ帝国のカール5世の対立が先鋭化して全ヨーロッパは動乱の時期に入った。フィレンツェを含むイタリア情勢も再び動揺が及ぶこととなり、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世は、ローマ教皇クレメンス7世がフランスと結んだことを口実にローマの劫略を行い、ローマは皇帝の派遣した傭兵によって略奪された。
(引用)フィレンツェでは「ローマ劫掠」の報が伝わると、事件の十日後の1527年5月16日、共和派と反メディチ派が一斉に蜂起し、メディチ家の二人の若い当主、イッポリトとアレッサンドロ、そしてクレメンス(ローマ教皇クレメンス7世)の名代パッセリーニ枢機卿を市から追放した。イッポリトとアレッサンドロはその傲慢で粗暴な性格のため悪評が高く、コルトーナ出身のパッセリーニも陰険で非常な人間として市民から嫌われていた。またローマにいるクレメンスの間接統治によってフィレンツェ市民は重い税負担を強いられ、メディチ支配への反感が強まっていた。
 共和派は、大評議会と市民軍を復活させ、ニッコロ=カッポーニを国家主席に選び、サヴォナローラ時代と同じように、「王イエス・キリスト」を戴く共和国を打ち立てた。<森田義之『メディチ家』1999 講談社現代新書 p.244>
 このときメディチ家のもとで政界に復帰していたマキァヴェリも失脚し、間もなく失意のうちに亡くなった。
要塞構築総監督ミケランジェロ 1529年、皇帝カール5世とローマ教皇クレメンス7世の和睦が成立し、皇帝がメディチ家のフィレンツェ復帰を確約したため、皇帝軍のフィレンツェ攻撃は避けられない状況となった。共和派は市の要塞化と戦争準備を進めた。このときミケランジェロは軍事九人委員会のメンバー兼「革命軍築塞総監督」に選ばれ、フィレンツェ防衛の責任者となった。

共和政の終焉

 1530年、フィレンツェはスペイン兵を主力とする神聖ローマ皇帝軍の10ヶ月に及ぶ包囲攻撃を受け、市民は焦土作戦を展開して抵抗(その中心は傭兵部隊であった)したが、3万の犠牲を出し、8月についに降伏した。
 ミケランジェロはメディチを裏切った形になって身を隠したが、クレメンス7世に許され、再びローマに招かれて、システィナ礼拝堂の奥壁に『最後の審判』を制作する。
 共和政を否定されたフィレンツェでは、教皇と皇帝の後押しによってメディチ家が復活し、再び専制支配体制をとるようになった。周辺地域とあわせてフィレンツェを首都とするトスカーナ公国が成立、メディチ家はその世襲の君主となった。

トスカーナ大公国

 1596年にはメディチ家が神聖ローマ皇帝からトスカーナ大公の地位を与えられてトスカーナ大公国となった。その後、メディチ家が代々、大公を継承した。17世紀前半に、望遠鏡を自作して天体観測を行い、地動説の正しさを証明したガリレオ=ガリレイはトスカーナ大公付の数学教師としてフィレンツェで活躍した。
 その後、1738年に断絶、トスカーナ大公の地位はハプスブルク家が継承することとなった。1860年、サルデーニャ王国によるイタリア統一の結果、イタリア王国に併合された。なお1865~1871の間、フィレンツェがイタリア王国の首都であった。
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ノートの参照
5章3節 イ.商業の発展
8章2節 ア.ルネサンスの本質
書籍案内

高階秀爾
『フィレンツェ』
中公新書

P.アントネッティ
『フィレンツェ史』
文庫クセジュ

森田義之
『メディチ家』
1999 講談社現代新書