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ロレンツォ=ディ=メディチ

15世紀後半、イタリアのルネサンス最盛期のメディチ家当主。イル=マニフィコ(偉大な人)と言われた。

 ロレンツォはメディチ家の全盛期をもたらしたコシモ=ディ=メディチの孫、ピエロ(「痛風病み」イル=ゴットーゾ)の子。
 1469年、父のピエロが死に、20歳で推されてフィレンツェの「国家の長」の地位につく。民主政なので世襲はできないが、この時期までにメディチ派は市政の要職を独占していたのでその後見で権力を握ることができた。しかし、反メディチ派の襲撃を受け、危機一髪で難を逃れ(この時弟のジュリアーノは殺された。1478年のパッツィ事件)、またフィレンツェの強大化を恐れ反メディチ派と結んでいたローマ教皇とナポリ王国もすぐれた外交手腕で屈服させ、かえって権力を強めることに成功した。彼自身は祖父の作ったプラトン=アカデミーで思索し、詩を作る文人でもあった。「イル=マニフィコ」(偉大な人)と言われた彼の時代、フィレンツェのルネサンスは爛熟の極にあったといえる。

ロレンツォの死と時代の転換

 1492年、ロレンツォが死去すると、フィレンツェの都市文明は斜陽の時期に入ることとなった。共和制の政体でありながらメディチ家の寡頭政治が行われていることへの不満と、華やかな文化の爛熟に対する反発心を一種の宗教改革の主張と結びつけたサヴォナローラという宗教家が登場、フィレンツェは混迷の時代に入る。ロレンツォ=イル=マニフィコの死んだ1429年は、コロンブスの新大陸到達があった年であり、また間もなくイタリア戦争というヨーロッパの動乱が始まろうとする時期であった。

Episode ロレンツォの臨終。サヴォナローラその罪を追求する

 しかし、そのような芸術の開花を苦々しく思う、聖職者がいた。ロレンツォがわざわざ説教師として招いたジロラモ=サヴォナローラであった。彼は次第に激しくロレンツォの専制と華美な文化を攻撃するようになる。1492年、臨終の床でロレンツォはサヴォナローラを招いて懺悔を頼んだが、サヴォナローラはそれを許さず、不当に取り上げた富を返すこと、人民に自由を回復することを条件に迫ったという。その死後、サヴォナローラはフィレンツェの市政と宗教の改革に乗り出す。<モンタネッリ/ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』黄金世紀のイタリア 上 中公文庫 p.205~224 「ロレンツォとジロラモ」>
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8章2節 イ.ルネサンスの本質