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アレクサンデル6世

15世紀末、ボルジア家出身のローマ教皇。ルネサンス、大航海時代、イタリア戦争のさなかにあったが、教皇庁は乱脈を極めた。1493年にスペイン・ポルトガルの植民地分割を調停し、教皇子午線を定めた。

 アレクサンデル6世はルネサンス期を代表するローマ教皇であり、また最も悪名の高いローマ教皇でもある。在位1492~1503年。出身はスペインで、本名はロドリゴ=ボルジア。ボルジア家というのは、権謀術数と毒殺などで競争相手を倒して頭角を現した一族。当時は教皇に選出されると、教皇領の統治者としての富をもち、一族を教皇庁の要職につけたり、高位の聖職者に任命したり、はたまたイタリアの各領主と取引をして領主の地位を与えたり、権力を揮うことができた。アレクサンデル6世も息子のチェーザレ=ボルジア(教皇に子供がいるのが不思議だが、しかも愛人の子と言われている)をヴァレンチノワ公に仕立て、娘のルクレツィアはフェラーラ公などに嫁がせ権勢を揮った。またフランス王シャルル8世をイタリアに引き入れ、1494年からのイタリア戦争の発端をつくるなど、世俗の権力との駆け引きに熱心であった。アレクサンドル6世による教皇庁の乱脈は、さすがに教会批判を呼び起こし、おりからルネサンスの全盛期であったフィレンツェではサヴォナローラによる急進的な政治と教会の改革が行われたが、アレクサンドル6世はそれを異端であると断じ、処刑した。

教皇子午線の設定

 彼の教皇としての仕事は、コロンブスインディアス(西インド諸島)への到達に始まるスペインとポルトガルの海外領土をめぐる争いを調停し、1493年に植民地分界線として教皇子午線を定めたことである。もっともこれは出身地スペインに有利に調停したので、ポルトガルの反発を受け、翌年は両国が直接交渉してトルデシリャス条約の締結となる。

イタリア戦争

 1494年、フランスシャルル8世がナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵入、イタリア戦争が始まると、スペインのフェルナンド5世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、ヴェネティア、フィレンツェなどが対仏同盟を結ん反撃し、フランス軍を撤退させることに成功した。スペインの協力で危機を脱したアレクサンドル6世は、1496年にフェルナンドイサベルカトリック両王の称号を贈った。1503年、アレクサンデル6世の死により次の教皇となったユリウス2世は、チェーザレ=ボルジアらを一掃し、ボルジア家の影響力を排除した。

Episode 情婦を教皇庁に住まわせたアレクサンデル6世

(引用)極端な一族登用は珍しい現象ではないが、アレッサンドロ六世は情婦の存在をも公然と示して、法王位に新たな汚辱を加えた。歴代の法王の多くは自分の一族を厚遇し、インノケンチウス八世はさらに息子とたちをも露骨に登用して、世人を驚かせた。だが、アレッサンドロはこれら二つに加えて、自分の情婦をこれ見よがしに誇示したのである。いわば鉄面皮な悪徳の三位一体であった。美女ジュリア・ファルネーゼの存在は、ローマ市民には周知の事柄であった。彼女は法王の娘ルクレツィア・ボルジアとともに、自分の義母アドリアーナ・デ・ミラの監督下に暮らしていた。ゼノ枢機卿が新築のサンタ・マリア宮殿を彼女たちに提供したのであるが、それはヴァチカン宮殿と同様、サン・ピエトロ寺院に通じる私用のドアを持っていた。法王は娘と情婦を訪問するのに、バシリカ大聖堂を通り抜けさえすればよかったのである。<マリオン・ジョンソン/海保真夫訳『ボルジア家』中公文庫 p.130>
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ノートの参照
8章1節 イ.アメリカ大陸の征服
書籍案内

マリオン・ジョンソン
海保真夫訳
『ボルジア家
―悪徳と策謀の一族』
1987 中公文庫