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サンバルテルミの虐殺

1572年、ユグノー戦争最中の旧教徒による新教徒の虐殺。

 1572年8月、ヴァロワ王家のマルグリット(カトリーヌ=ド=メディシスの娘)と、新教徒のブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)の結婚式の日、パリに集まった新教徒(ユグノー)たちが、旧教徒によって虐殺された事件。パリでは約4000人が殺害され、さらに虐殺は全土に及んだ。ユグノー戦争の最中の新旧両派の争いが頂点となった残虐な事件となった。サンバルテルミとは、キリスト教の聖人バルテルミ(聖バーソロミュー)の祭日の意味。

モロワの描く虐殺事件

 「二十四日の深夜、一時半に、サン・ジェルマン・ロクセロワの半鐘が、虐殺の合図を与えた。人名表は、何びとも遁れ得ないように、整備されていた。ギュイーズ自身が提督のもとへ出掛け、提督は英雄的に死んだ。パリでは、三、四千人のユグノー派が、恐ろしい場景の中で死んだ。地方では、特にリヨンとオルレアンで、他の数千人が死んだ。最も高位の人々、ラ・ロシュフコー、コーモン・ラ・フォルスも免れなかった。『パリは征服された都市のようである。』とタヴァンヌはいっている。『血が止まると、掠奪が始まった。……親王や諸侯、貴族たち、射手、近衛兵が、あらゆる身分の人々と、民衆とに混じって、往来で掠奪し殺戮していた。……』ただ王統の親王たち、アンリ・ド・ナヴァールとコンデとが死を免れた。しかし、彼等はルーヴル宮に捕虜となり、『宗教を変えるように要請された。』外国では、エリザベス1世は喪に服し、フェリーペ2世は祝辞を送った。『それは我が生涯の最大の喜びの一つである。……』ローマでは、法王グレゴリウス13世は『謝恩賛美歌(テ・デウム)』をとなえさせた。正統性の争いが聖愛に打勝ったのである。」<アンドレ・モロワ『フランス史』上 新潮文庫 p.215 一部訂正>

Episode フェリペ2世、生まれて初めて笑う

 フランスで旧教徒が新教徒を虐殺したという知らせを聞いたカトリック総本山のローマ教皇と、当時最大のカトリック国スペインのフェリペ2世がどんな反応を見せたか、次のように津照られている。
(引用)この大虐殺の報知がローマに伝わりますと、時のローマ教皇グレゴリウス13世は、サン・タンジェロ宮から祝砲を撃たせ、ローマ市民にお祝いの松明をかかげさせて、記念のメダルを鋳造させたり、画家のヴァザリに命じて大虐殺事件を三幅の絵に描かせたりしたと伝えられています。
・・・アンリ・セーの記すところによりますと、聖バルトロメオの虐殺の報を得て、時のローマ教皇グレゴリウス13世は、祝賀の大祭を行い、「この報知は五十回レパントの海戦でトルコ軍を破ることよりも喜ばしい」と言ったそうですし、ギュイーズ家および旧教軍の後楯になっていたイスパニアのヘリーペ2世は、生まれて初めて、この報知を聞いて笑ったし、それ以後は笑わなかったと伝えられています。大虐殺の首謀者が誰だかわからないとしても、こうした大虐殺を祝賀したり喜んだりした権力者の名前はわかっているのです。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.13、p.189>

Episode メリメの描く虐殺事件 “慈悲深き残虐”

 『カルメン』で知られるフランスの作家プロスペル=メリメは、歴史家でもあった。彼が1829年に書いた『シャルル九世年代記』は、サン=バルテルミの虐殺を描いた歴史小説である。事件当日の8月二四日のパリを次のように描いている。
(引用)夜が明けると、虐殺は止むどころではなく、かえって盛んになり、また規則正しく行われるようになった。旧教徒自身自身すらも、白い十字架をつけて武装することを怠ったり、または新教徒の尚お生きている者がある時、これを密告しなかったりすれば、邪教徒と目される有様であった。王は宮中深く隠れて、ただ暗殺者を会うだけであった。人民は略奪の希望に引かれて、市民軍や兵士と合同し、説法師は、寺院にあって、更に無慙な所業をなすように信者を激励した。
 「思い切って、一度に悪魔の首を皆斬ってしまえ。永く内乱の種を除け」と、僧侶は唱えた。天が人民の狂暴を嘉(よみ)し、見事な奇蹟によって奨励していると僧侶は言い触らし、血に飢えた人民に説いた。・・・「今日は残酷なことこそ慈悲にして、慈悲深きこと即ち残酷なり」というカトリーヌ王太后の言葉が、口口に唱えられ、女や子供を殺す時には、必ず繰り返された。・・・
 二日後に、王は虐殺を止めさせようとした。しかし、一度群衆の感情に手綱を弛めると、もはやこれを留めることは難しいものである。人殺しが少しも止まないばかりでなく、王も邪教徒に対する憐憫の情を非難されて、一旦命じた寛大な処置を取消して、またもや残忍な所業を奨励するに至った。<メリメ/石川剛・登志夫訳『シャルル九世年代記』岩波文庫 p.230 元の訳文は旧仮名遣いであるが、新仮名使いに改めた>

メリメの論評

 メリメは同書の序文で、この事件を次のように論評している。
(引用)サン・バルテルミーの 虐殺は、あの時代としても大きな犯罪であった。しかし繰り返して言うが、十六世紀に於ける虐殺は、十九世紀に於ける虐殺と、同じ程度の犯罪とはいえないということである。その上、この虐殺は国民の大多数が、事実上、または暗黙の同意の裡に、これに参加して、外国人乃至敵国人とまで見做していた、新教徒に対し突撃しようと武装したのであった。この大虐殺は1809年に於けるスペインの暴動と同じ種類の国民的暴動であった。パリの市民は邪教徒を暗殺しながら、天の命に従っていると確信していた。<メリメ『同上書』p.8>
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ノートの参照
8章4節 オ.フランスの宗教内乱と絶対王政
書籍案内

アンドレ・モロワ/平岡昇他訳
『フランス史』上
新潮文庫

渡辺一夫
『フランス・ルネサンスの人々』
岩波文庫

メリメ/石川剛・登志夫訳
『シャルル九世年代記』
岩波文庫庫