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ヴァレンシュタイン/ワレンシュタイン

三十年戦争での神聖ローマ皇帝側の総司令官。ベーメンの貴族で、カトリック軍を率いプロテスタント軍を撃破、介入したスウェーデン国王グスタフ=アドルフと戦い戦死させた。しかし、教皇と対立し、最後は暗殺された。

 三十年戦争のときの、旧教徒=神聖ローマ皇帝側の総司令官。ベーメン(ボヘミア)の貧乏貴族に生まれ、若いときから皇帝に仕え、プロテスタント軍との闘いで活躍、皇帝フェルディナント2世の信任を得て領地を拡大した。1624年、皇帝のために自分の費用で2万の傭兵部隊を編成し、皇帝軍総司令官に任命された。デンマーク王クリスチャン4世がドイツに侵攻すると、それを迎え撃って撃退し大いに名声を高めた。

グスタフ=アドルフとの死闘

 彼は皇帝のもとにドイツの統一を進めようとしたが、その力が強くなることを恐れた旧教諸侯の同盟(リガ)が反発し、1630年には一時司令官を辞任した。しかし同年、スウェーデン王グスタフ=アドルフがドイツに侵攻すると、皇帝フェルディナント2世はヴァレンシュタインを再び総司令官に任命、1632年、リュッツェンの戦いでグスタフ=アドルフ軍と対決した。その戦闘ではグスタフ=アドルフを戦死させたものの、スウェーデン軍に押され、敗北した。
 ベーメンに帰ったヴァレンシュタインは、皇帝を無視して単独で新教側との和平をはかろうとしたが、1634年に部下にそむかれて暗殺された。その強大化を恐れた、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が暗殺を命じたとの説もある。三十年戦争での英雄的戦いと、皇帝との確執や疑惑の最後などを題材として、シラーが戯曲『ヴァレンシュタイン』を書いている。

参考 ヴァレンシュタインの暗殺

(引用)三十年戦争が打ち続く中、光彩を放ちながらも謎に満ちたフリートラント公、アルバート・フォン・ヴァレンシュタイン(1583~1634)が登場した。彼は若くして、すぐれた指揮官の才を示し、1617年、フェルディナントの進めた対ヴェネツィア作戦に参加。とんとん拍子に出世し、皇帝からは栄誉をたたえられ、領地を与えられた。ただ、白山の戦い(ビーラー=ホラの戦い)に参加しなかったことは特筆に値する。その行動力と、何よりもあげた戦果のため数多くの敵を生み、1630年、皇帝フェルディナントは、レーベンスブルクの帝国議会の席上、ヴァレンシュタイン解任を約束させられた。ヴァレンシュタインはそこでプラハに帰り、若い頃から傾倒した占星術の研究に専念する。しかし、彼が皇帝にとって不可欠であることがまもなく明らかになり、呼び戻されて複戦。傭兵を養い、1632年のリュッツェンの闘いで、スウェーデン軍を撃破した。グスタフ=アドルフが倒れたのはこの闘いである。しかしここで謎が生まれる。何故、追撃する代わりに、ヴァレンシュタインはボヘミアの冬の陣営に引き揚げたのだろうか。さらに言えば、翌年、1633年の夏の闘いは、驚くほど緩慢に、しかもためらいがちに行われた。これを解く鍵はただ一つ、ヴァレンシュタインが既に、皇帝の命に逆らうことを決意していたことである。その命令とは、異端の者に出会えば必ず、力でねじ伏せ、情け容赦者なく、根絶やしにすることだった。ヴァレンシュタインは、自分の才気あふれる性格をもってすれば、スウェーデン人との交渉――帝国を完全に編成し、自分が皇帝となり、より寛容な宗教政策を打ち出すための交渉――が可能であると確信していたように思われる。彼の提案は、スウェーデン人に不審の目で見られ、とうとう(そして不可避的に)皇帝の耳に達した。皇帝は、1634年2月、大逆罪に問う起訴状に署名し、ヴァレンシュタインをその生死にかかわらず捕らえるように命じた。これに従って殺害が実行され、ボヘミアのヘプ(エーガー)で実行に移された。皇帝のために殺害を計画、準備した者の中に、三人のスコットランドの傭兵(一兵卒と言うよりはむしろ雇われ将校)のなが見出される。ゴードン、バトラー、レスリーである。彼らはたっぷりと報酬を受け取った。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.33-34>

プラハの「ヴァルトシュテイン宮殿」

 プラハのヴルタヴァ川とマラー・ストラナ広場の中間にあるヴァルトシュテイン宮殿という市内最大級の宮殿がある。ヴァルトシュテインはドイツ語のヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン)のチェコ語表記であり、この建物と庭園は三十年戦争で活躍した傭兵隊長ヴァルトシュテインが建築した建物である。彼は1629年、イタリアから建築家や造園家をまねき、周囲750mの敷地に、高い塀や不規則な形につながる回廊によって外界から隔絶された庭園を造営した。シャクナゲやツツジが咲き乱れ、片隅には人口の鍾乳洞がある。庭園の西側には美しいトスカーナ式の三つのアーチをもつテラスがある。ここには古代ローマの神々のブロンズ像があったが、三十年戦争の時、スウェーデン軍に持ち去られ、現在あるのはレプリカ。宮殿の「騎士の間」は「プラハの春」国際音楽祭の会場になっている。彼はどうしてこのような広大な敷地を手にいれることができたのだろうか。
(引用)ヴァルトシュテインは、チェコ貴族の多くがプロテスタント側であったのにたいし、ハプスブルク皇帝軍側について勝利に大いに貢献し、広大な土地を手にする。さらに富裕な未亡人との結婚によって大資産家委となった。そして個人的な傭兵隊をもち、戦争のさなかプラハ一の宮殿を建て、皇帝の権力に迫るまでになった。そのためか、皇帝に、敵軍と密かに手を結ぼうとした、との疑惑を抱かれて暗殺される。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.129>
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8章4節 カ.17世紀の危機と三十年戦争
書籍案内

リケット/青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社

田中充子
『プラハを歩く』
2001 岩波新書