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傭兵

古代から中世の戦争で金銭で雇われた兵士。古代のギリシアやローマで見られたが、15~18世紀、ヨーロッパでは軍事革命により騎士に代わって傭兵が戦争の主体となていった。しかし、封建国家から国民国家への転換に伴い姿を消し、徴兵制による国民軍に交代した。ところが現代においても戦闘行為を請け負うという軍事会社に姿を変えて存在している。

 国家、または権力者が金銭で雇った兵士。公権力によって徴兵、あるいは募兵された軍隊と異なる暴力装置として、世界史上、各地で存在している。古代地中海世界から中世、近代初頭のヨーロッパでは次のような傭兵の存在があった。  

ギリシアの傭兵

 ギリシアのポリス社会では市民が重装歩兵として国防に参加する義務を負い、その発展を支えていたが、ペロポネソス戦争が長期化する中で、各国とも農地が荒廃し、市民が没落、彼らを兵力とすることが困難となってきた。特にアテネでは前430年ペストの大流行で人口が減少し、クレタ諸島やバレアレス諸島(スペインの東の地中海上の島々)などから多数の傭兵を雇い入れることになった。傭兵は、アジアの専制国家においても早くから用いられており、ペルシア帝国の内乱の時、クセノフォンに率いられたギリシア人傭兵部隊が活躍したことは有名である。

ローマの傭兵

 ローマにおいても共和政時代は市民が重装歩兵として軍事的基盤をになったが、次第に有力者が没落した市民を私兵として雇うようになり、マリウス兵制改革で職業軍人制が導入され、市民軍体制が崩れていった。カエサルに代表される有力者はそれぞれ私兵を養って勢力を伸ばし、互いに争った。帝政時代には北方からのゲルマン民族の侵入に悩まされるようになるが、一方でゲルマン民族でローマ領内に移住したものを傭兵としてローマの防衛に当たらせるようになる。やがて西ローマ帝国はゲルマン人の「傭兵隊長」オドアケルによって滅ぼされる。

ヨーロッパの中世から近世へ

 中世ヨーロッパの軍事力は、基本的には封建領主層の主従関係で結びついた騎士階級が騎馬で戦うことが主体であった。また補助的に用いられた兵士は、弓矢を使って戦ったが、彼らは領主である騎士が荘園の農奴を経済外的強制によって動員することでまかなった。国王と雖も国民を直接兵士として動員することは出来ず、貴族たちの動員する封建的軍隊に依存していた。
 しかし、封建諸侯の封建的主従関係が次第に崩れてくると、封建的軍隊の動員に限界が生まれ、次第に給与を支払って兵士として雇用する傭兵が多くなっていった。14世紀の中世後期になるとその傾向はいっそう進み、百年戦争になると、多くの戦場で傭兵が働くようになり、そのような戦争形態が一般的になっていった。
 なかでもローマ教皇に雇われたスイス人傭兵は勇猛なことで知られ、恐れられた。その事実は今でもヴァチカン市国のスイス人衛兵として続いている。中世ヨーロッパの諸王間の戦争、十字軍、モンゴル軍との戦い、百年戦争やバラ戦争など封建軍隊による戦闘の主力となったのは傭兵であった。
スイス人傭兵 スイスは山岳地帯で耕地が少なく、穀物生産量が少なかったため、人口が増加するとその余剰労働力が、スイス人傭兵として、いわば出稼ぎに出る、という理由で傭兵が多くなった。スイスを構成している各邦は、外国との間で傭兵契約同盟を結び、外国が傭兵徴募を行うことを認める見返りとして、穀物の輸入や傭兵の返金資金を得ていた。しかし、このような公的な契約以外にも、傭兵請負業者(ブローカー)による私的な傭兵契約も横行し、かれらは雇い主が異なれば、互いに敵となって戦わなければならなかった。また傭兵賃金の支払いが滞れば、戦場を離れて掠奪を行うことも多く、また支払いの良い雇い主を求めて移動した。このようなスイス人傭兵との契約同盟で特に知られているのがフランス王とローマ教皇庁だった。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.88、p.130> → ヴァチカンのスイス人傭兵
ランツクネヒト

ランツクネヒト
Wikimedia Commons

ドイツのランツクネヒト 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、妻の父ブルゴーニュ公がスイス人傭兵を戦力としたフランスと戦って敗れたことを意識し、スイス人傭兵と同等な力を持つドイツ人傭兵部隊をつくろうと考えた。主としてシュヴァーベン地方から傭兵を募集し、スイス人傭兵を手本にしたドイツ人傭兵はランツクネヒト(Landsknecht)という。マクシミリアン1世は、独立運動を進めるスイス軍と1499年にシュヴァーベン戦争を戦ったがそのときからランツクネヒトが皇帝軍の中心的存在となった。派手な服装と長い槍(後に鉄砲も装備)をもつランツクネヒトはその後もハプスブルク家の重要な戦力として用いられ、カール5世がフランス王フランソワ1世と繰り広げたイタリア戦争ではスイス人傭兵と死闘をくりかえした。また同じ時期のドイツ農民戦争では農民反乱を鎮圧する側で働いたが、農民の側に立った傭兵もいた。<H.プレティヒャ/関楠生『中世への旅 農民戦争と傭兵』1982 白水社 p.5-52>

傭兵の時代

 16~17世紀の絶対王政の時代は傭兵の時代であり、それは中世から近世への移行期に起こったイタリア戦争(1494~1559)とともに始まった軍事革命の一つの現象だった。
軍事革命 16~17世紀のヨーロッパの戦争は、国王の相続を巡って領土を争った戦争と、宗教改革によって始まった旧教と新教のあいだの宗教戦争があったが、それらの戦争で戦力となったのは国王の家臣の貴族とその従者からなるのではなく、また農民がが動員された封建的軍隊でもなかった。「戦争は、純粋に商業的基礎に基づき、極めて国際的な戦争請負業者によって行われた。」<M.ハワード『ヨーロッパ史における戦争』中公文庫 p.52>
 軍事革命によって中世の騎士の一騎打ちと歩兵の弓矢を主体とする戦闘形態から、鉄砲や大砲などの火砲で武装した兵士の集団戦へと戦闘の主体が移った。それとともに兵士の多くが国王が給料を支払らう傭兵となり、国王から委任を受けてその募集、訓練、指揮を一手に引き受ける人物が傭兵隊長として活躍するようになった。
イタリア戦争  このような火砲で武装した傭兵を主体とした戦闘への変化が現れたのが、15世紀末から16世紀前半にかけて展開された、イタリアを巡る神聖ローマ帝国皇帝とフランス国王との間のイタリア戦争であった。イタリア戦争のピークとなったのが、1527年の神聖ローマ皇帝カール5世が派遣した傭兵によるローマの劫略であり、そこに典型的な傭兵の姿を見ることができる。
ドイツ農民戦争  イタリア戦争が続いた16世紀は、まさに宗教改革が進行した時代であり、同時に封建社会の矛盾が表面化し、ドイツでは農民の信仰の自由を求める要求が農奴解放への期待と結びつき、ドイツ農民戦争が展開された。このとき、諸侯(封建領主)が農民一揆を押さえつけるために用いた武力も傭兵であった。新旧キリスト教徒の宗教戦争においても、旧教側に立つ皇帝が傭兵を用いただけでなく、新教側の領主に雇われた傭兵もおり、傭兵が歴史の動向に大きな比重を占める時代となっていった。
三十年戦争 17世紀の前半には最後の宗教戦争とも言われる三十年戦争(1618~1648)が、主としてドイツを戦場として展開された。このとき、旧教側も新教側もその主要戦力としたのが傭兵であった。特に旧教側である神聖ローマ皇帝の軍隊は、ドイツでのランツクネヒトといわれた傭兵の傭兵隊長ヴァレンシュタインに率いられた傭兵部隊であった。旧教側ではヴァレンシュタインのほかにティリーも傭兵隊長として有名であるが、新教徒側にもマンスフェルトの率いる傭兵が活動していた。中でもヴァレンシュタインは典型的な傭兵隊長であり、三十年戦争はまさに傭兵が主力となった戦争の時代の象徴であった。

18世紀の戦争

ルイ14世 17世紀後半から18世紀にかけて、もっとも傭兵に依存した戦争を行ったのは、フランスのルイ14世だった。ルイ14世はスイスの各邦との傭兵契約同盟を結び、スイスで傭兵を徴募し、その給与を支払うと共に、年金を負担したので、その支出は莫大になった。
 18世紀の英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)はヨーロッパ本土からアメリカ大陸やインドなど植民地に及んでいき、現地人インディアンを兵力として巻き込んでいくという変化が生じている。

徴兵制=国民軍へ

 18世紀に絶対王政を倒す市民革命と産業資本家層という新しい階級を生み出した産業革命を経ることによって、ヨーロッパには国民国家が形成されていった。この段階になると国家間の利害の対立は領土や経済的権益をめぐってさらに激しくなり、各国も軍を戦時の時だけ編成するのではなく、常備軍を有するようになった。この国民国家の形成に伴う常備軍=国民軍への移行によって傭兵は姿を消すこととなった。
フランス革命とナポレオン戦争 替わって国民に国防の義務を負わせ、国民軍を編成するという体制の変化により、近代的な軍隊の時代が成立した。それに決定的な転換をもたらしたのがフランス革命での徴兵制の実施と国民兵の創設であった。その後、ナポレオン戦争の時代を経て常備軍=国民軍体制は定着した。<以上、『傭兵の二千年史』2002 菊池良生 講談社現代新書などによる> → 国民軍の形成(フランス)

植民地での傭兵

 近代以降においてはヨーロッパ列強の植民地支配において、本国からの兵力を送る代わりに、現地人を傭兵としたケースが多かった。特に植民地戦争の際に一部「外人部隊」などの傭兵が使用されたこともあった。19世紀のイギリス植民地であったインドで、東インド会社の傭兵とされたシパーヒーやグルカ(ネパール人)が知られており、そのほか、1920年代のフランスによるモロッコ保護国化に対する抵抗運動を弾圧するための外人部隊などが有名である。また、現代のアラブ世界の戦争などで傭兵の存在がみられる。

中国近代の傭兵

 中国の清朝には八旗緑営という正規軍があったが、19世紀中頃からイギリスなどヨーロッパ列強の侵攻を受け、その弱体化が明らかになった。さらに1851年に起こった太平天国の反乱を押さえることができず、その勢力はますます拡大した。清朝政府は正規軍の不備を補うため、地域の有力者である郷紳の力を借りて動員することに転じた。そこでうまれたのが、有力漢人官僚である曾国藩が組織した湘軍であり、それを継承した李鴻章淮勇である。これら郷勇と総称される軍事力はいずれも基本的には私兵集団であり、広く捉えれば、正規軍ではない傭兵としての性格が強かった。
 清朝は日清戦争後もこのようは私兵軍団が各地に分立し軍閥が形成されるが、これらも傭兵的要素が強かった。辛亥革命後も軍閥は存続し、ほぼ蒋介石の北伐終了(1927~1928年)まで続いた。

現代の傭兵「民間軍事会社」

 第一次と第二次世界大戦は、「総力戦」といわれる国家が全面的に「管理」する戦争であったため、傭兵や私的な軍事集団が表立って存在する余地はなかった。戦後の東西冷戦時代は、アメリカとソ連が核兵器を開発してにらみ合っていたことによって、世界の軍事的対立関係も「秩序化・系列化」され、これまた私的な軍事力が入り込む余地はなかった。ところが、20世紀末の冷戦の終結に伴って、いわば対立の秩序と系列が崩壊し、各地で地域紛争が表面化した。
 特に、アフリカと中東、ラテンアメリカでの内戦が激化すると、国家的正当性を失った対立勢力は競って私的な武装集団を組織し、戦闘行為を行い、あるいは敵対勢力の殲滅をはかるようになった。このようないわば「需要」の高まりに応じて、欧米に「民間軍事会社」が現れ、ビジネスとして戦争に加わる状況がでてきた。背景には、冷戦終結後、アメリカをはじめとする各国が軍縮にのりだしたため、それまで正規軍の兵士であったものが職を失い、社会復帰できずに戦場での「働き場所」を求めるようになっていたことが考えられる。
 そのような情勢に拍車がかかったのが、2001年の同時多発テロ(9・11)以来の「テロとの戦い」を標榜するアメリカが推し進めた、アフガニスタン戦争イラク戦争であった。これらはなるべく少ない兵力で効果を上げるため戦闘以外の後方任務に民間軍事会社員を雇用した。しかし、次第にその活動、請負範囲は広がり、実戦や通常の治安任務も行うようになった。こうして、21世紀になって、戦争における傭兵の存在が再びクローズアップされるようになった。
 ソ連の解体後の東欧においても、事情は同じであった。プーチンのロシアは、ウクライナとの緊張が高まる中、ロシア系住民を保護する名目でウクライナ国内での軍事行動を開始(ウクライナ東部紛争)したが、あまり正当性のない軍事行動を正規軍に代わって請け負ったのが、ワグネルという民間軍事会社だった。その創設者プリゴジンは実業家として成功して富を築いて民間軍事会社を起こし、プーチンに重用されるようになった。2022年2月、プーチンは「特別軍事行動」としてウクライナに侵攻、事実上の戦争状態となったが、その中で、当初ワグネルはドンバス、ルハンスク州での戦闘の主力を担っていた。世界史をふりかえるとき、ワグネルの登場は、傭兵が跳梁した17世紀の三十年戦争の悲惨な悪夢が蘇ったと感じさせる。
 ところが2023年6月24日、プリゴジンはプーチン政権のウクライナ侵攻の口実である、NATOやナチ勢力がウクライナを扇動してロシアを攻撃している、というのは嘘だ、と表明して戦線から離脱、ロストフなどを占拠してさらにモスクワに進軍するという驚くべき行動に出た。これはロシア国防省のショイグ国防省とゲラシモフ参謀総長が、ワグネルを正規軍に編入して統制しようとしたことへの反発であったようだが、プーチンは直ちに国家的反逆だと非難、強硬姿勢にでるとプリゴジンはあっけなく後退し、ワグネルの正規軍への登録を認め、自らはベラルーシに事実上の亡命をすることで決着がついたようだ。<2023/6/25 記>
蛇足 この一連の出来事は、プーチンが侵略戦争を「特別軍事行動」とごまかし、国民に戦争という事実を隠蔽、ワグネルを過信して戦闘行為を行わせた、という過ちから起こった茶番劇ともいえる。民間軍事会社に依存する戦争にはたして大義があるのか、はたしてそれで勝てるのか、大きな疑問を感じさせるできごとであった。一方のウクライナにも、戦力不足を補うためとして多数の外国人が「雇用」されているという。また戦闘機、戦車、弾薬、そしてミサイルとアメリカをはじめとするNATO諸国から援助を受けていることも事実である。このような武器の支援は本質的には傭兵とかわらないのではないか。そのような中、NATO加盟国でない日本がウクライナへの武器支援に踏み切ることは憲法上も許されず、平和を回復することにはならないのではないでしょうか。

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書籍案内

菊池良生
『傭兵の二千年史』
2002 講談社現代新書

マイケル・ハワード
奥村房夫・奥村大作訳
『ヨーロッパ史における戦争 改訂版』
2010 中公文庫

森田安一
『物語スイスの歴史』
2000 中公新書

H.プレティヒャ
関楠生
『中世への旅
農民戦争と傭兵』
初版1982 白水社
2023復刊 白水Uブックス

佐藤賢一
『傭兵ピエール』上
1999 集英社文庫

百年戦争を舞台にジャンヌ=ダルクと傭兵隊長の愛を描いた異色の小説。著者は中世フランス史の研究から出発した方で、この書はフィクションだが、傭兵の感じをつかむのには参考になる。