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ボヘミア/ベーメン・ベーメン王国/ボヘミア王国(1)

ボヘミア(ベーメン)は現在のチェコの西部でプラハを中心とした地域。10世紀以降、チェック人がボヘミア(ベーメン)王国を建設した。

 ボヘミアは現在はチェコ西部の地域名(チェコの東部はモラヴァ)で、プラハを中心としたモルダウ川流域の広大な盆地である。住民はスラブ系のチェック人であるが、歴史的にオーストリア領であったことが長いため、ドイツ系住民も多い。教科書や用語集ではベーメン(ボヘミア)とされているが、英語表記ではボヘミア Bohemia でそのドイツ語表記がベーメン Böhmen なので、ボヘミア(ベーメン)とするほうがよい。

Episode ボヘミアン

 ボヘミアンは本来はボヘミア人の意味であるが、現在は自由奔放な生き方をする人、一つの国にとどまらない人、などの意味で使われる。良い意味では何ものにも縛られない芸術家といったイメージもあるが、無国籍者、根無し草といった意味でも使われる。これはどうやら、ヨーロッパを放浪するジプシー(ロマともいう)の多くがボヘミア出身だったことから、フランスで言われるようになったらしい。特に19世紀末にはパリのモンマルトルにあつまる芸術家たちをボヘミアンと言うようになり、広がった。

チェック人の国家形成

 チェック人は8~9世紀までは南のモラヴィア王国に支配されていたが、10世紀初めにそれがマジャール人に滅ぼされたため、プシェミスル家が有力となって自立し、モルダウ川流域のベーメン地方のプラハを中心に「ベーメン」(ボヘミアのドイツ語読み)国家を形成した。プシュミスル家は神聖ローマ帝国の皇帝に臣従し、ベーメン公を名乗ったが、実質的には独立国家として存在していた。1085年には「ベーメン王(ボヘミア王)」の称号を認められ、神聖ローマ帝国を構成する一部となった。モラヴィア王国時代に布教されたギリシア正教は衰え、ローマ=カトリック教会が受容された。

ベーメン王国の成立

 神聖ローマ帝国でシュタウフェン家とヴェルフェン家が皇帝位を争ったときはシュタウフェン家につき、1212年にその功績でプシュミスル=オタカル1世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世からチェコ人の王の称号と、ベーメンの聖職者の任命権を認められた。この時の文書にはシチリア王を兼ねていたフリードリヒ2世の印章が付されていたので「シチリア王の金印勅書」といわれている。こうして形式的には神聖ローマ帝国の領邦の一つとしてプシュミスル朝ベーメン王国が成立した。ボヘミア王国、チェコ王国とも言う。

ハプスブルク家との抗争に敗れる

 13世紀の中ごろベーメン王となったプシュミスル=オタカル2世(オットカル2世とも表記)は、神聖ローマ皇帝のシュタウフェン朝の弱体化に乗じて勢力を拡大、オーストリア地方を支配し、さらにバルト海沿岸にも遠征軍を送った。また、ドイツ人の東方植民を積極的に受け容れ、ベーメン領内の開拓にあたらせた。その結果、神聖ローマ帝国内の最有力諸侯となり、皇帝に選出される勢いとなった。ところがベーメン王の勢力拡大を恐れたドイツ諸侯は新皇帝にスイス地方の一領主に過ぎなかったハプスブルク家のルードルフを選出した。怒ったオタクル2世は、アーヘンで行われた新皇帝の即位式をボイコット。それを口実とした新皇帝ルードルフはオタクル2世を帝国追放の罰を与え、追討軍を派遣した。両軍の決戦は1276年、ドナウ川の支流のマルヒ川のほとりで行われた。このマルヒフェルトの戦いで8月25日にオタカル2世自身が戦死してベーメン王は敗れ、その領土オーストリアなどをハプスブルク家に明け渡すことになった。ベーメン王国はその後、モルダウ川流域だけの小国となり、かわってハプスブルク家は本拠地をスイスからオーストリアのウィーンに移し、神聖ローマ帝国内の最大の勢力に成長する。<江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 p.26-27、薩摩秀登『物語チェコの歴史』中公新書 p.49-50>

ベーメン王国/ボヘミア王国(2)

14世紀 神聖ローマ皇帝カール4世の金印勅書の時代から、15世紀フスの時代へ。

神聖ローマ皇帝カール4世、ベーメン王を兼ねる

 1306年、プシュミスル朝が断絶したため、神聖ローマ皇帝ルクセンブルク家のハインリヒ7世の息子ヨハンをベーメン王として迎え、ルクセンブルク朝となった。ヨハンの子のカレル(カール)は1346年にドイツ王に選ばれ、同時に神聖ローマ皇帝となり、さらに1347年に父王が死んだためベーメン王となった。ベーメン王としてはカレル1世であるが、ドイツ王・神聖ローマ皇帝としてはカール4世と言われるので、それが通称となっている。
 カール4世は歴代の皇帝と違ってイタリア政策に没頭することなく、本国のベーメンと、ドイツの統治にあたった。ドイツ皇帝としては1356年に「金印勅書」を制定し、有力7諸侯の皇帝選出権を追認しながら、ベーメン王みずからも選帝侯となりその優位を保とうとした。しかし神聖ローマ帝国の分権体制は固定化された。

カール4世のベーメン王国支配

 金印勅書でベーメン王の優位を定めたカール4世は、ベーメン(ボヘミア)周辺のモラヴィア辺境伯・シュレジェンなどの諸侯を封建諸侯として支配し、プシュミスル家草創期の聖人ヴァーツラフの名を冠した王冠を戴く「チェコ王冠諸邦」の君主となった。チェコ人の王として相応しい王都としてプラハの拡充に着手、城内に聖ヴィート大聖堂を建設し、市域を拡大して人口3~4万の大都市とした。1348年にはプラハ大司教を学監とするプラハ大学を創設した。これは神聖ローマ帝国つまりドイツにおける最初の大学であり、カール4世が若いころ滞在したパリ大学を手本として4学部から構成されていた。カール4世の時代はベーメン王国およびプラハのもっとも繁栄した時代であったといえる。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』中公新書 p.60-70>

フスの教会改革運動とフス戦争

 カール4世の時代はプラハが神聖ローマ帝国の中心地として、経済・文化の両面で繁栄したが、ヨーロッパ全体では百年戦争の時代であり、一方でローマ=カトリック教会の権威が教会の大分裂によって低下し始めるという大きな転換期にさしかかっていた。教皇と教会は財産をもち、奢侈な生活を送りながら領主として農民を搾取し、政争に荷担する存在となっていた。それにたいしてまずイギリスでウィクリフが聖書に基づいた信仰に帰ることを説き、教会を批判すると、その影響がベーメンにも及んだ。
 15世紀のプラハ大学出身の修道士ヤン=フスは、熱烈にウィクリフを支持して教会批判を開始、プラハ大学の教授たちもそれを支持し、教会改革の嵐がおこった。また、後のルターらの宗教改革を先取るするものであった。ローマ教会はフスを1414年のコンスタンツ公会議で異端と断定して、翌年に処刑すると、ベーメンのフス派の貴族や農民が反乱を起こし、神聖ローマ皇帝の派遣する軍隊との間で激しい戦争となった。このフス戦争は1419年に始まり、フス派は15年以上にわたる戦いを続けたが、分裂したこともあって1436年に講和した。その後、神聖ローマ帝国の一領邦としてカトリック教会とドイツ人の支配が続くことになり、フス派は衰退していく。

三十年戦争の発端となる

 ベーメン(ボヘミア)はその後、ポーランドのヤゲヴォ家のヴワディスワフを迎えて国王とした。ヤゲウォ朝の王ラオシュ2世はベーメン王とハンガリー王を兼ねていたが、その1526年、オスマン帝国軍とのモハーチの戦いで戦死し、両国の王位は王妃マリアの兄、ハプスブルク家のフェルディナンド1世(カール5世の弟。後の神聖ローマ皇帝。)が継承し、ベーメンはハンガリーとともにハプスブルク領となってオーストリアに組み込まれることとなった。
 16世紀は宗教改革が始まった。ベーメンではフス以来の伝統があって反カトリックの素地があったので、ルター派の新教徒が増えていた。17世紀にベーメン王となったハプスブルク家のフェルディナント2世がカトリックを強制したことに反発して1618年、ベーメンの反乱が起こり、三十年戦争の発火点となった。
 → ベーメン民族運動  チェコスロヴァキア  チェコスロヴァキア解体
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ノートの参照
第6章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
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薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公新書