印刷 | 通常画面に戻る |

ボヘミア/ベーメン・ベーメン王国/ボヘミア王国/チェコ王国

現在のチェコの西部でプラハを中心とした、チェック人の居住地域をボヘミアと言った。10世紀以降、チェック人が自立し、ボヘミア(ベーメン)王国を建設するが、16世紀以降はオーストリアの支配を受け、ベーメンといわれた。

 ボヘミアは現在はチェコ西部の地域名(チェコの東部はモラヴァ)で、プラハを中心としたモルダウ川流域の広大な盆地である。住民はスラブ系のチェック人であるが、歴史的にオーストリア領であったことが長いため、ドイツ系住民も多い。教科書や用語集ではベーメン(ボヘミア)とされているが、英語表記ではボヘミア Bohemia でそのドイツ語表記がベーメン Böhmen である。オーストリアに支配されていた時期はベーメンと呼ばれたが、独立後は現地の地域名ボメミアか、民族名チェコを用いるのが正しい。独立以前もボヘミア(ベーメン)とするほうがよい。
 なお、第一次世界大戦後の1919年にチェック人は東方に隣接する同じ西スラブ系のスロヴァキア人と共にチェコスロヴァキア共和国を成立させたが、1993年に分離した。
 → (1)王国の形成 10~13世紀  (2)全盛期 14~15世紀  (3)オーストリアによる支配 16~18世紀  (4)ハプスブルク帝国の支配 19世紀

Episode ボヘミアン

 ボヘミアンは本来はボヘミア人の意味であるが、現在は自由奔放な生き方をする人、一つの国にとどまらない人、などの意味で使われる。良い意味では何ものにも縛られない芸術家といったイメージもあるが、無国籍者、根無し草といった意味でも使われる。これはどうやら、ヨーロッパを放浪するジプシー(ロマともいう)の多くがボヘミア出身だったことから、フランスで言われるようになったらしい。特に19世紀末にはパリのモンマルトルにあつまる芸術家たちをボヘミアンと言うようになり、広がった。

(1)ベーメン(ボヘミア)王国の形成 10~13世紀

モラヴィア王国に支配されていたチェック人が10世紀にプシュミスル家のもとで自立。神聖ローマ帝国の一部となる。

チェック人の国家形成

 チェック人は8~9世紀までは南のモラヴィア王国に支配されていたが、10世紀初めにそれがマジャール人に滅ぼされた後に、プシェミスル家が有力となって自立し、モルダウ川流域のベーメン地方のプラハを中心に「ベーメン」(ボヘミアのドイツ語読み)国家を形成した。プシュミスル家は神聖ローマ帝国の皇帝に臣従し、ベーメン公を名乗ったが、実質的には独立国家として存在していた。1085年には「ベーメン王(ボヘミア王)」の称号を認められ、神聖ローマ帝国を構成する一部となった。モラヴィア王国時代に布教されたギリシア正教会は衰え、ローマ=カトリック教会が受容された。

ベーメン王国の成立

 神聖ローマ帝国でシュタウフェン家とヴェルフェン家が皇帝位を争ったときはシュタウフェン家につき、1212年にその功績でプシュミスル=オタカル1世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世からチェコ人の王の称号と、ベーメンの聖職者の任命権を認められた。この時の文書にはシチリア王を兼ねていたフリードリヒ2世の印章が付されていたので「シチリア王の金印勅書」といわれている。こうして形式的には神聖ローマ帝国の領邦の一つとしてプシュミスル朝ベーメン王国が成立した。ベーメン王国はボヘミア王国、チェコ王国とも言う。

ハプスブルク家との抗争に敗れる

 13世紀の中ごろベーメン王となったプシュミスル=オタカル2世(オットカル2世とも表記)は、神聖ローマ皇帝のシュタウフェン朝の弱体化に乗じて勢力を拡大、オーストリア(東方の国の意味)地方を支配し、さらにバルト海沿岸にも遠征軍を送った。また、ドイツ人の東方植民を積極的に受け容れ、ベーメン領内の開拓にあたらせた。その結果、神聖ローマ帝国内の最有力諸侯となり、皇帝に選出される勢いとなった。ところがベーメン王の勢力拡大を恐れたドイツ諸侯は新皇帝にスイス地方の一領主に過ぎなかったハプスブルク家のルードルフを選出した。怒ったオタクル2世は、アーヘンで行われた新皇帝の即位式をボイコット。それを口実とした新皇帝ルードルフはオタクル2世を帝国追放の罰を与え、追討軍を派遣した。
オタカル2世の戦死 両軍の決戦は1276年、ドナウ川の支流のマルヒ川のほとりで行われた。このマルヒフェルトの戦いで8月25日にオタカル2世自身が戦死してベーメン王は敗れ、その領土オーストリアなどをハプスブルク家に明け渡すことになった。ベーメン王国はその後、モルダウ川流域だけの小国となり、かわってハプスブルク家は本拠地をスイスからオーストリアのウィーンに移し、神聖ローマ帝国内の最大の勢力に成長する。<江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書 p.26-27、薩摩秀登『物語チェコの歴史』中公新書 p.49-50>

(2)ベーメン(ボヘミア)王国の全盛期 14~15世紀

14世紀、神聖ローマ皇帝カール4世の金印勅書を定め、首都プラハを建設しチェコの全盛期を現出。15世紀にはプラハでフスの宗教改革始まる。

神聖ローマ皇帝カール4世、ベーメン王を兼ねる

 1306年、プシュミスル朝が断絶したため、神聖ローマ皇帝ルクセンブルク家のハインリヒ7世の息子ヨハンをベーメン王として迎え、ルクセンブルク朝となった。ヨハンの子のカレル(カール)は1346年にドイツ王に選ばれ、同時に神聖ローマ皇帝となり、さらに1347年に父王が死んだためベーメン王となった。ベーメン王としてはカレル1世であるが、ドイツ王・神聖ローマ皇帝としてはカール4世と言われるので、それが通称となっている。
 カール4世は歴代の皇帝と違ってイタリア政策に没頭することなく、本国のベーメンと、ドイツの統治にあたった。ドイツ皇帝としては1356年に「金印勅書」を制定し、有力7諸侯の皇帝選出権を追認しながら、ベーメン王みずからも選帝侯となりその優位を保とうとした。しかし七選帝侯の地位は世襲されたため、神聖ローマ帝国の分権体制は固定化された。

カール4世のベーメン王国支配

 金印勅書でベーメン王の優位を定めたカール4世は、ベーメン(ボヘミア)周辺のモラヴィア辺境伯・シュレジェンなどの諸侯を封建諸侯として支配し、プシュミスル家草創期の聖人ヴァーツラフの名を冠した王冠を戴く「チェコ王冠諸邦」の君主となった。チェコ人の王として相応しい王都としてプラハの拡充に着手、城内に聖ヴィート大聖堂を建設し、市域を拡大して人口3~4万の大都市とした。1348年にはプラハ大司教を学監とするプラハ大学を創設した。これは神聖ローマ帝国つまりドイツにおける最初の大学であり、カール4世が若いころ滞在したパリ大学を手本として4学部から構成されていた。カール4世の時代はベーメン王国およびプラハのもっとも繁栄した時代であったといえる。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』中公新書 p.60-70>

フスの教会改革運動とフス戦争

 カール4世の時代はプラハが神聖ローマ帝国の中心地として、経済・文化の両面で繁栄したが、ヨーロッパ全体では百年戦争の時代であり、一方でローマ=カトリック教会の権威が教会の大分裂によって低下し始めるという大きな転換期にさしかかっていた。教皇と教会は財産をもち、奢侈な生活を送りながら領主として農民を搾取し、政争に荷担する存在となっていた。それにたいしてまずイギリスでウィクリフが聖書に基づいた信仰に帰ることを説き、教会を批判すると、その影響がベーメンにも及んだ。
 15世紀のプラハ大学出身の修道士ヤン=フスは、熱烈にウィクリフを支持して教会批判を開始、プラハ大学の教授たちもそれを支持し、教会改革の嵐がおこった。また、後のルターらの宗教改革を先取るするものであった。ローマ教会はフスを1414年のコンスタンツ公会議で異端と断定して、翌年に処刑すると、ベーメンのフス派の貴族や農民が反乱を起こし、神聖ローマ皇帝の派遣する軍隊との間で激しい戦争となった。このフス戦争は1419年に始まり、フス派は15年以上にわたる戦いを続けたが、分裂したこともあって1436年に講和した。その後、神聖ローマ帝国の一領邦としてカトリック教会とドイツ人の支配が続くことになり、フス派は衰退していく。

(3)オーストリアによる支配 16~18世紀

16世紀、ハプスブルク家領となりオーストリアに組み込まれる。17世紀には三十年戦争の舞台となる。チェコのプロテスタントは弾圧の結果、衰退し、オーストリアによる支配もその後も続き、独立は第一次世界大戦後となる。

ハプスブルク家領となる

 ベーメン(ボヘミア)はその後、ポーランドのヤゲヴォ家のヴワディスワフを迎えて国王とした。ヤゲウォ朝の王ラオシュ2世はベーメン王とハンガリー王を兼ねていたが、その1526年、オスマン帝国軍とのモハーチの戦いで戦死し、両国の王位は王妃マリアの兄、ハプスブルク家のフェルディナント(カール5世の弟。後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)が継承し、ベーメンはハンガリーとともにハプスブルク領となってオーストリアに組み込まれることとなった。

ハプスブルク家支配下のプラハ

 16世紀には宗教改革が始まった。ベーメンではフス以来の伝統である反カトリックの素地があったので、ルター派の新教徒が増えていった。1555年、アウクスブルクの和議を成立させた翌年の56年に神聖ローマ皇帝となったフェルディナント1世は、ウィーンにイエズス会士をまねき、反宗教改革に着手した。しかし、次のマクシミリアン2世とルードルフ2世は、カトリック化には熱心でなく、寛容な姿勢をとった。とくにルードルフ2世(在位1546~1612)は、ボヘミア王を兼ね、ハプスブルク家の宮廷をプラハに移し、政治から離れて絵画や占星術、錬金術などに没頭した。この時期のプラハは、ヨーロッパの文化の中心としての輝きをもっており、天文学者ヨハネス=ケプラーも皇帝の友人としてプラハ城に滞在している。

三十年戦争の発端となる

 しかし、1618年にルードルフ2世はボヘミア王位を同じハプスブルク家のフェルディナント(翌年、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世となる)に譲ると、フェルディナントはイエズス会に学んだ熱心なカトリック教徒であったため、ボヘミアに対しカトリックを強制し、プロテスタント弾圧に踏み切った。プロテスタント貴族たちが、プラハ城に押しかけて官吏を窓から投げ出すという挙に出たことから、ベーメンの反乱が起こった。1620年にはフェルディナント2世はスペインなどの軍隊を用いて、ビーラー=ホラの戦いでプロテスタント軍を破り、その勝利を機に、ボヘミアでのプロテスタントは禁止され、終焉を迎えた。
 このボヘミアで始まった宗教対立は、ヨーロッパにおける最後にして最大の宗教戦争である三十年戦争の発火点となった。三十年戦争ではボヘミア出身の傭兵隊長ヴァレンシュタインが皇帝側の旧教軍を指揮し、プロテスタント軍と戦った。さらにスウェーデン・デンマーク・フランスが新教徒を支援、スペインが旧教徒を支援してそれぞれ介入し、ヨーロッパ全域におよぶ戦争となったが、とくにプラハを中心としたボヘミア(チェコ)はその戦場となり大きな被害を受けた。

(4)ハプスブルク帝国の支配 19世紀

ハプスブルク家の支配の続くベーメンは、帝国を支える地域として重要性を増しながら、民族的自覚が高まった。1848年の諸国民の春で立ち上がったがすぐ弾圧され、帝国支配は第一次世界大戦まで続いた。

1848年の諸国民の春

 ボヘミアはその後もオーストリア帝国支配が長く続きいたが、次第に工業が発達し生産力が高まったので、中産階級が成長しはじめた。 19世紀にフランス革命などの影響を受けて、民族的自覚が高まり、1848年革命がオーストリアにも波及し、ウィーンで三月革命が起こり、ハプスブルク家支配下の諸民族が一斉に自由を求めて立ち上がった。それを諸国民の春という。ベーメンのプラハでもチェック人(チェコ人)市民が結集し、封建的負担の廃止、市民的自由、チェコ語とドイツ語の平等などを要求、ウィーンのオーストリア政府もそれらを認め、仮政府が樹立された。さらにベーメン民族運動の指導者パラツキーは、スラブ系民族の統一をめざして、スラヴ民族会議を召集した。しかし、ウィーン政府が反撃に転じて武力行使に出ると、運動は急進派と穏健派に分裂し、鎮圧されてしまった。パラツキ-らは1860年代に民族党を結成したが、1870年代には彼らは老チェコ党といわれるようになり、代わって青年チェコ党が運動の主導権を握るようになった。

ボヘミアの言語問題

 1867年、オーストリア帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世アウスグライヒ(妥協の意味)を発表して、ハンガリー王国を独立国家と認めてオーストリア=ハンガリー帝国とした。それをうけて青年チェコ党などがベーメンでも同様な処置を求めると、皇帝は一定の妥協を図らざるを得なくなった。それはチェコ人の最も強い要求である言語の対等化をまず図ろうというものであった。
 1879年にはボヘミア出身の首相ターフェは言語令を発し、官庁の窓口でのチェコ語にドイツ語と対等の扱いとし、さらに1897年には首相バデーニの新言語令で「ボヘミアとモラヴィアのすべての官吏はドイツ語とチェコ語を理解しなければならない」と定めた。これはドイツ人官吏にとって不利なことだったので、彼らを中心にオーストリア全土で反対運動が盛り上がり、首相バデーニは罷免され言語令は撤回されてしまった。それに対してプラハを始めベーメン全土で暴動が起きるなど、事態は深刻さを増していった。

マサリクらの指導

 第一次世界大戦が起こると独立運動の指導者マサリクはアメリカに亡命し、世界にチェコ人の独立を訴えた。世界的な民族自決の動きの中で、ようやく大戦後の1919年チェコスロヴァキア共和国が成立する。 → チェコスロヴァキア解体  現在のチェコ
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第6章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立
書籍案内

薩摩秀登
『物語チェコの歴史』
2006 中公新書

田中充子
『プラハを歩く』
2001 岩波新書