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対仏大同盟

フランス革命およびナポレオンの大陸支配に対するヨーロッパ諸国の軍事同盟。

 対仏大同盟とはフランス革命の拡大を防止することやナポレオンの大陸侵略から防衛することを目的とした、フランス包囲網を形成するための軍事同盟。フランスの大国化を恐れるイギリスと、革命の波及を恐れるオーストリア、プロイセン、スペインなどの周辺国の利害が一致したときに結成された。その最初が第1回対仏大同盟であったが、フランス側の革命の進展に対応して、周辺国の利害が対立する場合もあり、解消と再結成をくり返すこととなる。なお、詳しく見ていくと7回結成されているが、一般的にはそのうちの重要であった次の4回を挙げることが多い。
 第1回対仏大同盟(1793~97)、第2回対仏大同盟(1799~1802)、第3回対仏大同盟(1805)、第4回対仏大同盟(1813~14)。

第1回対仏大同盟

1793~97年 イギリスの首相ピットが提唱した、フランス革命の拡大を阻止するための軍事同盟。

結成までの経緯:フランス革命の時期にイギリスでは産業革命が進行していた。イギリスの政府とブルジョアジーは、フランス革命には当初傍観していたが、革命政府がベルギーやオランダへの進出する動きを示すと、イギリスにとって重要な市場であったので強い警戒感を抱くようになった。1792年4月フランス革命政府(国民公会)はヨーロッパ諸国の革命干渉に対する戦争を開始した。9月のオーストリア・プロイセンの連合軍とのヴァルミーの戦いの勝利に続き、11月にはベルギーのジェマップでもオーストリア軍を破り、オーストリアはベルギー支配を放棄した。イギリスの首相ピットはフランスがさらにオランダに侵攻することを恐れ、ルイ16世の処刑を口実にフランス向け商品の輸出を停止、それをうけて1793年2月フランス革命政府はイギリスに宣戦し、3月には占領地のライン左岸とベルギーを併合することを宣言した。イギリスはスペイン、オーストリア、プロイセン、サルデーニャなど大陸諸国と共に対フランス同盟を形成し革命フランスを包囲し、革命の進行を押しとどめる干渉を行った。
結成:フランス革命政府によるベルギー侵攻とルイ16世処刑に対して、1793年に結成。
提唱者と同盟国:イギリスの首相ピットが提唱し、イギリス・スペイン・オーストリア・プロイセン・オランダ・ポルトガル・サルデーニャ・ロシアが加盟した。
主な戦闘:93年、イギリス軍が占領していたツーロン港を奪回(若きナポレオンが功績を挙げた)、94年フルーリュスの戦い(フランス軍がプロイセン軍に大勝)、1796年からのナポレオンのイタリア遠征(ロディの戦いでオーストリア軍に大勝)
結成後の情勢: この第1回対仏大同盟は、1797年まで継続するが、この間同盟諸国では、第2回ポーランド分割をめぐるプロイセンとオーストリアの対立もあって必ずしも足並みはそろわず、フランス国民軍の善戦もあって目的を達することはできなかった。ジャコバン派独裁政府は公安委員会(その中心人物がサン=ジュスト)が1793年8月に徴兵制を施行し、国民総動員態勢を成立させた。
解散:1797年10月、オーストリアがフランスに降伏しカンポ=フェルミオ条約が締結されたために瓦解。

第2回対仏大同盟

1799~1802年、ナポレオンのエジプト遠征に対してイギリスなどが結成。

第1回対仏大同盟に続く、二回目の対フランス包囲網を形成するための軍事同盟。1799年から1802年のアミアンの和約の成立まで。
結成:ナポレオンのエジプト遠征に対してイギリスが硬化し、オーストリアなどに同盟を提唱。1799年3月12日、フランスがオーストリアに宣戦布告。
同盟国:オーストリア・イギリス・ロシア・オスマン帝国・ナポリ王国など。なおこの時、プロイセンはフランス大使シェイエスの働きで中立をとった。イギリス外務大臣グレンヴィル卿を中心に、ルイ18世の復活を中心とする対フランス政策が練られる。
主な戦闘:ナポレオンの第2次イタリア遠征、1800年のマレンゴの戦いでナポレオン軍が大勝。
解散:フランスはオーストリアとは1801年2月に休戦し、リュネヴィル条約でライン左岸を確保。イギリス国内にも講和派が台頭し、対仏強硬派のピットが辞任したため、1802年のアミアンの和約が成立し、第2回対仏大同盟は解消した。

第3回対仏大同盟

1805年、ナポレオンの皇帝就任に対してイギリスのピットが提唱し結成された反仏同盟。

 1805年にナポレオンの皇帝就任に対して結成された、対フランスの包囲網を形成する軍事同盟。第1回(1793~97)、第2回(1799~1802)に続く第3回。
結成:イギリスとフランスは1802年にアミアンの和約で対立を棚上げしていたが、ナポレオンがナポレオン皇帝に即位(1804年)し、ヨーロッパ大陸支配を明確にしたことに対して、イギリスの首相ピットが和約を破棄し、対フランス軍事同盟の結成を呼びかけた。
同盟国:イギリス・オーストリア・ロシア・スウェーデン。第2回と同じく、プロイセンは加盟せず、中立を守った。
主な戦闘:1805年10月のトラファルガーの海戦(イギリス海軍がフランス・スペイン連合海軍を破る)、同年12月のアウステルリッツの三帝会戦(ナポレオンのフランス軍が、オーストリアとロシアの連合軍に大勝)。
解散:アウステルリッツの戦いの講和条約であるプレスブルク条約が成立し解消された(プレスブルクは現在のブラティスラヴァ)。 ・その後:ナポレオンはトラファルガーで敗れ、イギリス直接攻撃はできなくなったので、1806年に大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発し、イギリスを海上封鎖して経済的な打撃をあたえようとした。しかし、ロシアなどは公然とその命令を守らず、効果は薄かった。

第4回対仏大同盟

1813年、ナポレオンのロシア遠征に対し、フランスを包囲するために結成された軍事同盟。

ナポレオンのロシア遠征失敗の後、1813年にフランスを包囲するために結成された軍事同盟。対仏大同盟としては一般に第4回とされるが、厳密には第1回(1793~97)、第2回(1799~1802)、第3回(1805)に次いで、1806年の神聖ローマ帝国解体に対応して、イギリス・ロシア・プロイセンで結成されたものを第4回(1806年~イエナの戦いの後の1807年、ティルジット条約で解消)、スペインの反乱を機に、1809年にイギリス・オーストリア間で結成されたものを第5回(ワグラムの戦いの後のシェーンブルンの和約で解消)とする場合もあり、その場合はこの1813年の同盟は第6回となる。なお、1815年にエルバ島を脱出したナポレオンがパリに帰還すると、それに対抗するために対仏大同盟が再建され、それを第7回と数えることもある。ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北したため、対仏大同盟は終結する。
結成と同盟国:1813年、ナポレオンがロシア遠征に失敗したのを機に、イギリス・オーストリア・プロイセンなど、デンマークを除くヨーロッパ諸国が加盟。フランスのヨーロッパ大陸支配を覆すための戦争に起ち上がった。
主な戦闘と解散:1813年3月に各地で解放戦争を開始、10月のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオン軍を破り、連合軍がパリ入城。1814年4月、ナポレオンは退位して大同盟が成功し、解散。その後、ナポレオンのパリ帰還を受けて再開されたものを対仏大同盟という場合もある。