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ピール

ピール

19世紀ギリスの保守党政治家。トーリを近代的政党としての保守党に脱皮させ、自由主義経済政策を推進し、1846年、穀物法廃止に踏み切る。

 ピール Robert Peel 1788-1850 は若くして下院議員となり、トーリ党の政治家として活躍、1832年のホイッグ党グレイ内閣の第1次選挙法改正には一貫して反対した。しかし彼は単純な保守政治家ではなく、また地主階級出身でもなく、ランカシャーの綿業家の出身であったため、地主保護のための保護主義を採らず、自由貿易主義への転換を模索していた。彼のもとでトーリ党は単なる有志集団ではなく、政策を作り上げる政策集団、近代政党としての「保守党」に脱皮することが出来たと言える。特に1846年の穀物法の廃止は、グレイ内閣での選挙法改正(第1回)(1832年)、グラッドストン内閣での選挙法改正(第3回)をはじめとする自由主義改革などと並んで、19世紀イギリスの重要な改革と位置づけられている。

保守党の立ち上げ

 1834年、グレイ内閣を次いだホイッグ党メルバーン内閣が国王ウィリアム4世と対立して辞任した後、トーリ党の下院指導者であったピールに組閣が命じられた。ピールはイングランド中部の自らの選挙区で「タムワース選挙綱領(マニフェスト)」を発表し、「改革の時代の新たな保守政党としてのトーリを再建することを宣言した。これは近代的な選挙綱領の先駆けとなると同時に、これ以後トーリは保守党(Conservative Party)と呼ばれるようになった。」<君塚直隆『物語イギリスの歴史下』2015 中公新書 p.94>
 しかし同年末と、翌年4月に行われた総選挙では、更なる議会改革を訴える急進派、アイルランド分離を唱えるオコンネル派、そしてホイッグという三党派の結束に敗れ、ピール保守党政権は総辞職に追い込まれた。1837年、18歳の女王ヴィクトリアが即位したが、1838年には人民憲章が発表されてチャーティスト運動が盛り上がり、さらに反穀物法同盟が結成されて穀物法の廃止を要求する声も高まり、政治と経済の両面での改革が避けられない情勢となっていった。ホイッグ党メルバーン内閣が有効な対策を立てられず辞任し、保守党ピールに再び組閣が命じられることとなった。

穀物法廃止と保守党の分裂

 1841年に首相に再任されると、関税の廃止・制限、44年の銀行法でイングランド銀行に発券銀行としての独占権を与えるなど自由主義的な経済政策を推進し、ついに1846年に議会に穀物法廃止を提案した。ピールに穀物法廃止を決断させたのは、1845年夏に起こったアイルランドのジャガイモ飢饉に端を発する穀物価格の急上昇であった。
 穀物法の廃止には保守党の下院議員368名の中で実に222人が保護貿易主義者としてピールの政府案に反対票を投じた。ピール首相はホイッグ党と提携してその賛成をとりつけ、ようやく可決した。しかし保守党の分裂は修復できず、ピール内閣は総辞職を余儀なくされた。これによって保守党は保護主義を守る主流派と、ピール派と言われる自由貿易派に分裂し、1850年のピールの死後、ピール派はホイッグ党の自由党に吸収されることとなる。

自由貿易帝国主義

 ピール内閣は自由貿易政策を進め、その象徴である穀物法廃止を実現させたが、一方でアヘン戦争を終結させて南京条約を締結し、香港島を割譲させ、清朝に対して自由貿易を武力で強制した。このように対外的には武力行使も辞さずに貿易の利益を拡大し、国内の産業資本家の要求に応えようとするのがその本質であった。そのような姿勢は「自由貿易帝国主義」と評されることもある。また国内では40年代後半のチャーティスト運動に対しては厳しい弾圧の姿勢をとり続けた。
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ノートの参照
第12章1節 ウ.七月革命とイギリスの諸改革