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穀物法

1815年、イギリス議会が地主を保護するために制定した法律。

 穀物法 Corn Law は1815年、地主や農業資本家が多数を占める議会で成立した。ナポレオン戦争後、ヨーロッパからの穀物輸入が増え、穀物価格が下落し、農業不況の様相となったので、時のトーリ党(保守党)政府は「小麦価格が1クォーター80シリング以下の時は小麦の輸入を禁止する」という穀物法を制定した。これは地主や農業資本家の利益を守るねらいから定められた保護貿易政策であり、そのため穀物価格は高くなって消費者である都市住民、労働者が反発し、またそのため貿易も停滞して工業製品(綿織物など)の輸出が阻害されたので、産業資本家も強く反発するようになった。
 穀物法反対の先頭に立ったのが、反穀物法同盟を結成したコブデンブライトであり、彼等はマンチェスターの産業資本家であった。1819年にはマンチェスターで8万人の労働者が集まって選挙法改正とともに穀物法反対を訴える大集会を開いて、官憲から弾圧されるというピータールー事件が起こった。  19世紀前半のイギリスの政治的な対立点の一つとなり、自由貿易主義の台頭を受けて、1846年に議会が穀物法の廃止を成立させるに至る。

穀物法廃止

1846年、イギリスで穀物の輸入を制限していた穀物法を廃止し、自由貿易を実現させた政策。

 1846年のイギリスでの穀物法廃止は、「伝統的な支配階級で農業に経済的基盤を持つ地主階級と、工業化を主導する新興ブルジョワ階級の利害がついに正面衝突し、工業の利害が凱歌をあげた自由貿易主義運動のクライマックス」であった。
 穀物法は1815年に地主の利益を守るために、外国からの小麦輸入を制限する法律。産業革命が進行し、産業資本家が成長すると、彼らは工業製品の自由な輸出を阻害する穀物法に反対するようになった。また産業革命に伴う都市への人口移動によって生まれた都市の市民、労働者など広範な消費層も、こぞって穀物法に反対するようになった。その中心になったのが、1838年にマンチェスターで結成された、コブデンブライトなどが指導する反穀物法同盟である。自由貿易主義者はこの穀物法廃止を最も強い要求としてかかげ、盛んに世論を喚起した。
 その結果、1846年に保守党ピール内閣は穀物法廃止に踏み切った。これは、奴隷貿易廃止(1833)、航海法の廃止(1849)と並んで、自由貿易主義の勝利を意味する出来事であり、資本主義の完成した段階に入る前提となったといえる。  → 農業革命

穀物法廃止の背景

 地主階級を基盤とする保守党は穀物法堅持を党方針としていたが、首相のロバート=ピール自身は大綿業家の息子で、自由貿易派だった。穀物法反対が盛り上がると廃止に踏み切るタイミングを計っていたかもしれない。1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉が起きると情勢は大きく転換した。アイルランドからの穀物輸入が激減して価格が急上昇、穀物の価格高騰を抑えるためにも、その輸入を自由化する必要があると訴えた。ピールはついにホイッグ党の自由主義派であるマンチェスター派に同調し、廃止に踏み切った。こうして党首に裏切られた保守党は分裂し、翌年穀物法廃止法案は議会を通過した。
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ノートの参照
第12章1節 ウ.七月革命とイギリスの諸改革